【連載:奥の細道を辿る③】仙台を発った芭蕉と曾良は塩竈から舟で松島入り


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元禄2年(1689年)3月27日(新暦5/16)に江戸の深川を出発した松尾芭蕉(まつおばしょう)と弟子の河合曾良(かわいそら)は、5月4日(新暦6/20)仙台に到着しました。

この仙台藩62万石の城下町には4泊5日滞在し、市内の歌枕や名所旧跡を訪ね歩いた後、5月8日(6/24)に次の目的地塩竈(しおがま)を経由して芭蕉念願の歌枕の一つ松島へと足を進めます。


奥の細道とは?

「奥の細道」とは、俳人・松尾芭蕉が弟子の河合曾良(かわいそら)と、江戸から陸奥を巡り北陸から岐阜の大垣まで、各地で俳句を詠みながら歌枕と名所旧跡を訪ね歩いて旅行した紀行文集です。

歌枕とはいにしえの都の歌人たちが、そのイメージや情緒を想像して和歌に織り込んだ名所旧跡のことを指し、歌人や俳人には憧れの的でした。

序文の「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也」は、「月日は永遠の旅を続ける旅人で、去る年も来る年も同じように旅人だ」と訳され教科書に登場します。

みちのくの風土とそこで詠まれた俳句が紹介されていて、元禄2年3月27日(現在の暦では1689年5月16日)の旅立ちから156日間約2,400kmの道のりの記録です。


仙台に元祖「おくの細道」があるって本当?

東光寺の石碑 みやぎデジタルフォトライブラリーより

芭蕉たちは多賀城に着く前に、仙台の北を流れる七北田川の岩北大橋の上流にある今市橋を渡り、東光寺を訪れます。

この寺の近くには菅(すが)の里があり、ここの菅は笠や蓑の材料として質が良く「十符(とふ)の菅」として歌枕にもとりあげられていました。

江戸時代のこの付近の道は風情があり、仙台の俳人大淀三千風はこの道を「おくの細道」と名づけていて、この名が心に残った芭蕉が紀行文の名として引用したとも言われています。

現在の東光寺山門前には、「おくの細道」と記された立派な石碑が建てられています。

東光寺<Information>

  • 施設名:東光寺
  • 所在地:宮城県仙台市宮城野区岩切入山22
  • 電話番号:022-255-8906
  • URL:東光寺 公式サイト

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【多賀城】古代の国府について書かれた石碑に落涙

壷の碑がある洞 みやぎデジタルフォトライブラリーより

724年に建設された多賀城は、陸奥国の国府として11世紀の中ごろまでは陸奥の文化・政治・軍事の拠点として栄えていました。

壷の碑(つぼのいしぶみ)は奈良時代(8世紀頃)に建てられた古碑で、多賀城の歴史や当時の周辺の様子に平城京などについて記されていて、歌枕として多くの和歌に歌われていました。

この碑の前に立った芭蕉は、「千年経っても変わらずに残るこの石碑に大きな感動を覚え落涙した」と書き残しています。

多賀城碑(壺碑)<Information>

  • 施設名:多賀城碑(壺碑・つぼのいしぶみ)
  • 所在地:宮城県多賀城市市川田屋場16 多賀城跡
  • 電話番号:022-364-5901(多賀城市観光協会事務局)
  • URL:多賀城市観光協会 公式サイト

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【末の松山】仙台から塩竈間は歌枕の宝庫

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末の松山 多賀城市 公式サイトより

仙台から塩竃までの道中では「末の松山」「野田の玉川」「沖の石(沖の井)」など、有名な歌枕に寄り道しています。

末の松山は宝国寺の裏山にあって、昔の大津波でも水没しなかったので「決して波が越えることがない地」として有名になり、変わらない恋心などを表わす歌枕です。

男女が寄りそうように立つ二本の松のそのはかなげな風情が感じられます。

沖の石(沖の井) みやぎデジタルフォトライブラリーより

その末の松山のふもとにある沖の石も住宅街の中に在りながら、その奇岩が存在感を示しています。

しかし、野田の玉川はコンクリートの護岸に覆われていて、現在では面影が失われてしまいました。

末の松山<Information>

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【塩釜(塩竈)】伊達政宗が再建した塩竈神社に参拝

塩竈神社 みやぎデジタルフォトライブラリーより

塩竈で一泊した翌朝、芭蕉と曾良は松島に向かう前に、伊達政宗が再建した「奥州一宮(いちのみや)塩竈神社」に詣でました。

神殿前に藤原忠衡(ふじわらただひら)が寄進した宝塔があり、父である秀衡(ひでひら)の遺言に従って最後まで源義経を守って戦った忠義の武将への芭蕉の想いがつづられています。

彼らは参拝した後、舟をチャーターして松島に海から入り、雄島(おしま)に上陸します。

鹽竈神社(塩竈神社)<Information>

  • 施設名:鹽竈神社(塩竈神社)
  • 所在地:宮城県塩竈市一森山1-1
  • 電話番号:022-367-1611
  • URL:塩竈神社 公式サイト

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【松島】念願の歌枕の地では感激のあまりにまたも句を詠めず

松島の景観 みやぎデジタルフォトライブラリーより

5月9日(6/25)の昼ごろ、芭蕉は快晴の「日本三景」松島に到着しました。

湾内にさまざまな大きさと形の島々が松を背負って浮かぶ自然の造形美を絶景と称え、夜には月に照らされた光景にまた感動したことが本文に表現されています。

念願がかないよほど感動したのか、白河の関と同様にここ松島でも「素晴らしすぎて句が浮かばない」として、本文には曾良の句が載せられました。

松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす(曾良)

「松島の絶景、ここは鶴がふさわしい風情だから、今鳴いているホトトギスも鶴に身を変えておくれ」という意味です。

素晴らしい松島の景観には、きれいな声で鳴いているホトトギスよりも優美な鶴がよく似合うとしています。

松島海岸<Information>

  • 施設名:松島海岸
  • 所在地:宮城県宮城郡松島町松島

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【松島】芭蕉が瑞巌寺に参詣したのはいつ?

瑞巌寺本堂 瑞巌寺公式Facebookより

本文では芭蕉が瑞巌寺を詣でたのは5月11日(6/27)とされていますが、曾良の旅日記では9日に松島に到着してすぐに瑞巌寺に詣でていたようです。

瑞巌寺は霊場であった松島に9世紀の昔から別名で存在していましたが、伊達政宗が菩提寺とした際に「瑞巌寺」と名付けられ、本堂と隣の庫裡(くり)は国宝です。

これら建築物は芭蕉が訪れた当時と同じたたずまいでありながら、近くの国道45号線はお土産物店や飲食店が立ち並び、観光客や車の喧騒の中で「不易流行」を感じます。

なお、瑞巌寺では芭蕉の参拝を記念して、毎年11月第2日曜日に芭蕉祭が行われています。

瑞巌寺<Information>

  • 施設名:瑞巌寺
  • 所在地:宮城県宮城郡松島町松島町内91
  • 電話番号:022-354-2023
  • URL:瑞巌寺 公式サイト

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奥の寄り道③】松尾芭蕉とはどんな人物?

松尾芭蕉 伊賀市公式観光サイトより

芭蕉は和歌の余興だった俳諧(はいかい)の芸術性を高め、「蕉風俳諧(しょうふうはいかい)」と呼ばれる句風を確立させた江戸時代の俳人です。

1644年に伊賀上野(三重県)で苗字帯刀を許されている農民の家に生まれ、松尾宗房(まつおむねふさ)と名乗って武士の家に仕え、そこで俳句に出会いました。

そして芭蕉は、人生の活路を俳句に求めて29歳で江戸へ出て、日本橋で俳人たちとの交流を深めその名を立てた後に、深川の芭蕉庵で隠棲的な生活を送ります。

そして、46歳の時に隠棲しながら家を持つ事のはかなさを悟り、陸奥(みちのく)に旅立つ事を思い立ち、その後の人生は旅のなかに俳人としての理想の姿を見出したのでした。


まとめ

「塩竈」が公式の表記ですが「塩釜」と書かれる事もあります、仙台と塩竈の間には陸奥国の国府が置かれていた多賀城があり、重要な歌枕が多数あり芭蕉と曾良はあちこち立ち寄りました。

また、芭蕉は本文で「11日に瑞巌寺に詣でた後、平泉に向かうが道を間違えて石巻に着いた」としていますが、曾良の旅日記では10日に石巻まで移動して宿泊しています。

これが芭蕉の勘違いなのか、あるいは何らかの意図があったのかはわかりませんが、彼らは松島を後にして奥の旅最大の目的地である岩手県の平泉に向かいます。


次の記事:【連載:奥の細道を辿る④】芭蕉念願の藤原三代の浄土、平泉に到着


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