三春駒

【福島県】三春に伝わる郷土玩具で日本三大駒の一つでもある「三春駒」

福島県郡山市西田町。藩政時代には三春藩の高柴村という村があった地域に、日本三大駒の一つにも数えられる「三春駒(みはるこま)」という郷土玩具が存在します。


三春駒とは?

三春駒とは、主に朴(ほお)の木の角材を切り出して作られる馬の形をした子供の玩具で、青森県八戸市の八幡駒、宮城県仙台市の木下駒を合わせた「日本三大駒」の一つともされています。

三春駒(黒駒)
三春駒(黒駒)

基本的に白駒と黒駒の二種類があり、赤、黒、金色等の彩色を施し、ニカワを塗ってツヤを出し、麻のたてがみと尾を植えて作られます。

三春駒(白駒)
三春駒(白駒)

橋本彦治氏の制作した三春駒は、昭和29年に年賀切手のモチーフに採用された日本で最初の民芸品としても有名です。

年賀切手の三春駒
昭和29年に郷土民芸シリーズとして発行された年賀切手の三春駒 出展:Wikipedia

正式名称は「高柴木馬(たかしばきんま)」

子供の玩具である木馬はもともと高柴村で作られる木馬であることから「高柴木馬(たかしばきんま)」と呼ばれていました。

三春駒(高柴木馬)
三春駒(高柴木馬)

江戸時代の三春藩は馬産地として有名な地域で、野生の馬を捕獲・改良し、販売することが藩の一大産業となっていました。そしてその馬の流通の際に、現在でいうブランド名のような形で三春産の馬「三春駒」という名称が使用されていました。

つまり「三春駒」とはもともと「実際の馬」についていたブランド名で、「高柴木馬(たかしばきんま)」がその名称で呼ばれるようになったのは昭和初期~中期頃からと考えられています。

古くからブランド名として他の地域に認知されていた「三春駒」という名前にすることで、「高柴木馬(たかしばきんま)」の工芸品としての認知度を上げようとしたのかもしれませんね。


三春駒の伝説

三春駒の発祥にはこんな伝説も残っています。

平安時代、征夷大将軍である坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)が大滝根山の洞窟に住む大多鬼丸(おおたきまる)という鬼の征伐の為にこの地に赴きました。その際、京都の清水寺の僧である延鎮が小さな木駒100体をお守り代わりに贈りました。

坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)
坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ) 出展:Wikipedia

やがて戦いは始まりましたが、長旅の疲れから坂上田村麻呂の軍勢は苦戦を強いられます。その時どこからともなく100騎の馬が現れ、兵達はその馬に乗り大滝根山へ攻め登り大多鬼丸を成敗しました。

その後、100騎の馬はいつの間にかいなくなってしまいます。

翌日、一匹の木彫りの駒が高柴村の近くで汗だくになっているのを村人の一人が拾い、近隣の知恵者からこれは京都の延鎮の作った100匹の木駒の一つであると聞き、行方の分からない99匹を自分で作って補いました。

それから数年後、拾った一匹の駒もいつの間にかいなくなり、模作した残りの99匹を里の子供に与えたところ、これで遊ぶ子供は健康に育ち、子の無い家では日に3粒の大豆を木馬に供えると子宝に恵まれたといわれています。


現在も三春駒を作り続ける発祥の地「高柴デコ屋敷」

現在も三春駒を作り続け、その発祥の地とされているのが福島県郡山市西田町(旧:三春藩高柴村)にある高柴デコ屋敷。

玩具の故郷として全国的に有名で、4軒の工人の家々がそれぞれの伝統を守り、三春張子人形や張子面、だるまなどを作り続けています。

高柴デコ屋敷の彦治民芸
高柴デコ屋敷の彦治民芸

第二次世界大戦以降、木彫りから一貫して三春駒を作り続けているのはその中の一軒「彦治民芸(ひこじみんげい)」のみとなっています。

三春駒<Information>

  • 名  称:高柴デコ屋敷 彦治民芸
  • 住  所:〒963-0902 福島県郡山市西田町高柴舘野80−1
  • 電話番号:024-972-2412
  • 公式URL:http://dekoyashiki-hikojimingei.co.jp/

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