【福島県田村郡三春町】愛姫(めごひめ)とはどんな人物?名将の賢妻となった愛姫の軌跡を辿る

今回の記事では、戦国時代の名将として名高い伊達政宗の正室「愛姫(めごひめ)」という人物をテーマに、歴史を掘り下げます。実は彼女の出身地は、福島県田村郡三春町です。三春城の城下町として栄えた三春町内には、今も当時の面影を残す史跡や記念碑が残されています。

愛姫とは一体どのような人物であり、三春町内にはどのようなスポットがあるのでしょうか。歴史をひも解きながら解説します。


「愛姫」とはどんな人物?

戦国時代の名将・伊達政宗の正室となった愛姫とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。まずは愛姫の生まれや、伊達家へ輿入れすることになった背景、彼女の功績について解説します。


「愛姫」が伊達家に嫁いだ背景

愛姫の出身は、福島県田村郡三春町です。当時、この一帯をおさめていたのは三春城主の田村清顕公です。清顕公と正室・於北との間に生まれた一人娘として、愛姫は愛情を一身にうけて育ちました。ちなみに「めご」とは、福島の方言で「かわいらしい」の意味です。愛姫と名付けられたことからも、両親の溺愛ぶりが想像できるのではないでしょうか。

すくすくと育った愛姫は、数え年で12歳のときに、当時の米沢城主の嫡男・伊達政宗の元へ嫁ぎます。この婚姻が取り付けられたわけには、田村家が置かれていた厳しい状況がありました。

当時、会津地方で力を伸ばしていた芦名家は、田村家の力を抑えるために、田村家を孤立させる策を練りました。そこで福島県南で力を持っていた各家と連盟関係を結び、田村家をけん制する包囲網を築いたのです。いつ敵に攻め入られ、敗戦してもおかしくない状況に陥った田村家。跡取り息子がいない清顕公にとって、敗戦は即座に、田村家の存続の命運につながります。いつまで家を守り続けられるかわからない、不安定な状況に陥ったのです。

そこで清顕公が目をつけたのが、北部で力をもっていた伊達家です。伊達家と盟約を結ぶために、娘を嫁がせたいと嘆願しました。家督を継ぐ前から、政宗は秀でた器量をもつ注目人物だと、各所で噂が流れていました。伊達家の内部では、敵の多い田村家との婚姻に反対する者も多かったそうです。しかし、清顕公は負けなしの優れた武人で、名の通った人物でした。最終的には優れた戦力をもつ田村家とのつながりはメリットだとの結論にいたり、伊達家は愛姫の嫁入りを受け入れたのです。そして田村家と伊達家の間で、愛姫の生んだ子どものうち、嫡男は伊達家の跡取りとし、次男は田村家の養子にする盟約を結びました。

こうして田村家の存亡がかけられた愛姫の嫁入りが決まりました。数え年12歳とは、満年齢でいえば11歳ほどです。少女が感じていたプレッシャーは、相当なものだったことでしょう。

婚姻後、愛姫は歴史に名を残す賢妻に

愛姫が歴史に名を残す理由は、「伊達政宗の正妻であった」だけでなく、彼女の「賢妻っぷり」があります。18歳で家督を継いだ政宗は米沢城の主となり、17歳の愛姫は伊達家の内政を取り仕切るようになりました。政宗は戦によって覇権を広げ、ついには福島県の会津地方・中通り一帯を配下におく一大勢力を築き上げました。

そのころ、天下統一を目前とした豊臣秀吉から、伊達家は会津領を手放すように申し付けられ、戦の参集に応じなかった田村家は取り潰しとなりました。その後、秀吉は従えた大名たちの妻子を、秀吉のいる京都に住まわせる措置を命じます。いわば、大名たちが裏切らないように人質をとったのです。愛姫も、京都聚楽第の伊達屋敷に住まい、長く身を置くこととなります。

しかし愛姫はただ京都に身を置くだけでなく、京都の情勢を、政宗に細やかに伝え続けました。そして「私のことは案じず、大義に従ってご決断ください。いざというときのために、常に懐剣をもっています」といった内容の手紙も送っています。愛姫の聡明さ、芯の強さが感じられます。

そして愛姫は27歳のときに、長女「五郎八姫(いろはひめ)」を生みました。そして32歳に、嫡男「伊達忠宗(ただむね)」に恵まれ、その後も2人の男子を出産しました。残念ながら下の2人の男子は早くに亡くなってしまいます。その後、愛姫は江戸の屋敷に移り住みました。夫婦は各々の建屋で暮らし、面会は厳格な雰囲気であったと伝わっています。

政宗は、70歳で生涯を終えました。体調が悪化してから亡くなるまでの約3週間、愛姫が見舞いたいと願い出ても、政宗は病気で弱った姿を見せたくないと、会うことを許しませんでした。伽羅や巻物と共に、今後の伊達家を案じた遺言と、「数日内に会って礼を伝えるから、今しばらく待ってほしい」というメッセージを伝えたきりになってしまったといいます。政宗の遺体は、その日の夜に江戸を出発して仙台へ向かったため、愛姫は別れを告げることも十分にできなかったようです。愛姫はその後、政宗の菩提を弔うために仏門に入り、陽徳院と名を改めました。

田村家の再興を叶えた愛姫

家の存続のため愛姫を伊達家に嫁がせた田村家は、豊臣の世で家が取り潰しとなっていました。旧臣たちは本来、伊達家が引き取るはずでしたが、旧臣の中には「田村家が絶えたのは政宗がだましたからだ」と考える者が多く、伊達家を頼る者は少なかったそうです。伊達家に使えなかった家来たちは、他の大名家につかえたり、農家になったりと散り散りになっていました。しかし、政宗が亡くなって陽徳院(愛姫)が伊達家の実力者の頂点となると、田村家の旧臣たちはこぞって伊達家に仕官しました。

陽徳院は86歳で天寿を全うし、この世を去りました。この頃には多くの田村家旧臣が伊達家に集い、陽徳院の死を悼んだとされています。そして、田村家の再興を果たしたのは、愛姫の孫にあたる宗良です。愛姫の長男・忠宗の三男にあたります。宗良の死後は、その子の宗永が一関藩主となり、幕末まで11代の歴史を築くに至りました。


三春町に残る愛姫の軌跡

滝桜が有名な三春町ですが、町内には愛姫の歩んだ軌跡が残されいます。現在も残る、愛姫にまつわる歴史の影を紹介します。

三春城跡

愛姫の生まれ育ったとされる、三春城跡です。町中心部に位置する大志多山に座する三春城は、その美しい姿から舞鶴城とも呼ばれていました。1504年に田村義顕が築いたとされています。愛姫の生きた時代に、堀や土塁、石積みを多く築いて、戦国の城砦となっていったとされています。祖語の、明治維新後に解体されるまで、三春藩主の居城として使われていました。

城跡に向かう道は、木々に囲まれ、不思議なパワーを感じさせられます。

現地には、当時の姿を思わせる石垣などが残されています。三春の町並みを見渡す景色は、歴代の城主たちも臨んだものでしょう。歴史ロマンを感じながら、散策してみるとよいのではないでしょうか。

敷地内には、愛姫生誕の地を表す記念碑がひっそりと佇んでいます。

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愛姫小路

愛姫小路

伊達政宗との婚儀のため、愛姫はわずかな従者をつれて三春町を発ちます。愛姫の嫁入り道中は、現在の国道349号線沿いのルートを北上し、二本松市田向・伊達郡川俣町・伊達市梁川へと向かっていったようです。三春町内の渋池には、愛姫が伊達家に嫁ぐ際に通ったと思われる道の1つに愛姫小路の石碑を置いています。

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愛姫生誕450年を記念した特設サイトを設置

三春町では、2018年に愛姫生誕450年を迎えたことを記念して、特設サイトを制作しました。サイトでは、愛姫にまつわるエピソードを多数公開しています。また、有名アニメクリエイターがデザインを担当したPRキャラクターや、三春町に拠点を置く福島ガイナが制作したアニメーション「愛姫 MEGOHIME」を公開しています。

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三春町から国の命運を背負って嫁いだ愛姫という人物

今回は愛姫という人物を紹介しました。福島県田村郡三春町出身の愛姫は、田村家存続の命運を握り、伊達政宗の正室となった人物です。数え年12歳で生まれ故郷・三春町を発った彼女は、計り知れない重責に耐え、伊達家・田村家の繁栄のために生涯を捧げました。三春町を訪れた際は、彼女の生きた時代の歴史の影をぜひ探してみてください。


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