【山形県寒河江市】源頼朝の知恵袋「鎌倉殿の13人」の1人、 大江広元と山形の関係
NHKで現在放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に主要人物の一人として登場している大江広元は、その明晰な頭脳で鎌倉幕府を支えた人物です。
歴史の授業に出てくる「守護地頭」の制度は大江広元が考え、源頼朝に勧めたものだと言われています。
そんな鎌倉幕府にとってなくてはならない存在の大江広元が鎌倉から遠く離れた山形県に実はゆかりが深い人物だったことはご存じでしょうか。
今回は源頼朝の腹心、大江広元と山形の関係について紹介します。
大江広元とは
大江広元は平安時代末期の1,148年(久安4年)に生まれたと推察されています。(出自には所説あり)
もともと下級貴族として朝廷に仕えていましたが、広元の兄・中原親能(なかはら ちかよし)が源頼朝と懇意にしていた縁から鎌倉に招かれ、37歳の頃に頼朝の相談役として仕えるようになります。
やがて頼朝は平家を滅ぼし鎌倉幕府を開きますが、その際に広元は一般政務と財政を担当する公文所(後の政所)の別当(現在の長官のようなもの)を任され、幕府の要人として第一線で活躍しました。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕のために挙兵した「承久の乱」では、頼朝の正妻・北条政子とともに第2代執権北条義時を支え、幕府軍の勝利に大きく貢献したと伝えられています。
奥州藤原氏滅亡により山形を治める
1,189年(文治5年)、頼朝は弟の源義経をかくまったとして奥州平泉(現在の岩手県)に攻め入り、東北一帯を治めていた北方の王者、奥州藤原氏を滅亡に追い込みます。
広元はこのときの戦の恩賞として山形県では寒河江荘(現在の寒河江市と西村山郡)や長井荘(現在の長井市周辺)などの地頭に命じられます。
寒河江市の基礎を築く
大江氏は戦国時代に最上義光に滅ぼされるまでの約400年間、18代にわたって寒河江地方を統治し、現在の寒河江市の礎を築き上げました。
8代当主時氏(ときうじ)、9代当主元時(もととき)の時代には寒河江城を三重の堀で囲い、大々的な改修・改築を実施します。城の周囲には武家屋敷が続々と建てられ、寒河江は城下町として賑わうようになりました。
大江氏ゆかりのスポット
慈恩寺
開山1,300年の歴史をもつ由緒正しい寺院です。鎌倉後期に火災にあった際、5代当主元顕(もとあき)が寺社の復興に貢献したといわれています。江戸時代には徳川幕府から寺領2,812石が与えられ、東北有数の巨大寺院群としてその名を馳せました。
慈恩寺テラス
令和3年5月にオープンしたばかりの新しい施設です。国史跡に指定された「慈恩寺旧境内」を分かりやすく今に伝えています。
本楯館跡
幕府の要職に就き、関東を中心にいくつもの荘を持っていた広元は、妻の父である多田仁綱に寒河江の統治を任せたと伝わります。本楯館は多田仁綱が最初に築いたとされる館(やかた)です。
かつてはすぐ近くを最上川が流れていましたが、現在は土塁などの跡がみられるのみです。
寒河江城跡
大江氏が寒河江を治めたときの本拠地です。
一説には、広元の長男親広(ちかひろ)が築いたといいます。
承久の乱の折、京都守護を務めていた親広は父広元とは袂を分かち朝廷側に味方します。
戦に敗れた親広は祖父である多田仁綱を頼り寒河江の地に落延び、幕府から罪が許されるまで隠れ住んでいたといいます。
寒河江城は江戸時代に廃城となり現在建物は残っておらず、碑石が建てられているのみです。本丸跡の一部は小学校の敷地となっています。
おわりに
寒河江市には大江氏時代の面影が感じられるスポットが髄所にあります。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映によって大江広元の人物像がぐっと身近に感じられるようになった今、ドラマの予習・復習もかねて大江氏のゆかりのスポットを訪れてみてはいかがでしょうか。
参考文献:「ふるさと寒河江の歴史」阿部酉喜夫/宇井啓著(山形県寒河江市教育委員会)