【宮城県北・岩手県南地域】東北で広がるキリスト教、隠れキリシタンの里となった宮城県北、岩手県南地域(前編)
目次
宮城県と岩手県の県境、登米市東和町の米川(よねかわ)と岩手県一関市藤沢町大籠(おおかご)地域、そして気仙沼市本吉町馬籠(まごめ)地域が「隠れキリシタンの里」であった事はご存知でしょうか?
東北にはキリシタンにまつわる土地がいくつかありますが凄惨な歴史とともに現在も残る東北の隠れキリシタンのお話、今回は東北、宮城県北(登米市 – 気仙沼市)・岩手県南(藤沢町)周辺地域で広がったキリスト教を前編とし、後編では現地取材とともに東北・岩手県南・宮城県北地域の隠れキリシタンの歴史のお話と実際に訪れた殉教地をご紹介します。
戦国時代以前、人々の信仰は?
隠れキリシタンのお話の前に、まずは説明しておかないといけないのが何故、島国の日本でキリスト教が広まったかというところと古来日本ではどのような信仰宗教があったのか、ということ。
日本には現在、神道、仏教、キリスト教など多様な宗教文化が混在していますが、そもそも日本の信仰の原点は「神道」であるとされ、 日本人は縄文の昔から神様の存在を感じとり、そこを聖地として手を合わせてきました。
6世紀頃になると大陸から仏教がもたらされ、仏教が導入された頃は宗教というよりも学問的な要素が強く、そこから得られる教えや知識は天皇や貴族など特権階級のものだったと言われています。
日本で広まるキリスト教
室町時代である1549年、ポルトガル人が鉄砲を伝え、時代も戦況も大きく変わり始めていた頃にスペインのイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しました。
フランシスコ・ザビエルは、1550年に鹿児島人アンジロウの案内で島津貴久(しまづ たかひさ)と謁見、同年11月には周防国(現在の山口県)の守護大名、大内義隆と謁見し、キリスト教の布教を許可され、平戸や山口などで伝道活動を行いました。この時に大内義隆からは日本初のキリスト教会となる「大道寺」を与えられることになります。※ちなみにこの「大道寺」という名は「天に通じる大いなる道の寺」という意味があります。
滞在2年余りの間に500人以上に洗礼を授け、1551年には大友宗麟(おおとも よししげ)の招きで大分でも布教しました。
1553年には府内教会(豊後国内ー現在の大分県)が建立され、キリスト教の布教と南蛮貿易はセットで行われるようになりました。九州地方の大名は、南蛮貿易の利益を得るためにキリスト教を保護し、自身もまた信者となって人々にもキリスト教をすすめました。1573年前後から信者の数は大きく増えていきます。
1587年、バテレン(宣教師)追放令を発布
その後、豊臣秀吉の時代になると当初は信長と同様にキリスト教容認の立場を取っていましたが、九州平定後の1587年にキリスト教宣教の制限を表明します。
これは宣教師の国外退去を求めるものでしたが、布教に関係しない外国人(商人)の出入りは自由なままであり、また個人でキリスト教を信仰すること自体も許されていました。大名のキリスト教への改宗についても秀吉の許可が必要だったという点を除けば可能でしたが、実際には既にキリシタン大名であった黒田孝高(くろだ よしたか ー 通称 黒田官兵衛)が棄教したり、高山右近(たかやま うこん)が信仰のために地位を捨てるということもありました。
1612年徳川幕府が禁教令を布告
1612年3月21日、幕府は駿府・江戸・京都に禁教令を布告し、教会の破壊と布教の禁止を命じます。これにより禁制扱いになったキリスト教は邪宗門と呼ばれることになりました。しかし、禁教令布告当初は宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたため徹底的な対策はとられ無かったとされています。
キリスト教への弾圧が厳しくなり始めたのは禁教令が布告された1612年から4年後になります。この頃から最初の鎖国令、「二港制限令(ヨーロッパからの船の来航を長崎港と平戸港に制限する命令)」が出されます。徳川幕府は「下々百姓に至るまで」とし、キリスト教の禁止を厳格に示しました。
さらに1637年に起きた島原の乱(島原・天草地域で引き起こされた、百姓やキリスト教徒を主体とする江戸幕府への大規模な武力闘争事件)の前後からは幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われました。段階的に強化された鎖国により、宣教師の来日も不可能になりました。
東北にも広がるキリスト教
九州地方から遠く離れていた東北の地でなぜキリスト教が広まったのか、それは現在の登米市東和町・岩手県藤沢町大籠地域の土地柄と2人の備中(現在の岡山県西部)出身の兄弟が大きく関わってきます。
1558年岩手県藤沢地域・宮城三陸地域にて製鉄事業が始まる
現在の登米市東和町・気仙沼市本吉町・岩手県藤沢町大籠地域は良質な鉱山地帯であり伊達政宗が製鉄を推奨した地域でした。1558年、大籠の千葉土佐(ちば とさ)が備中国の戸坂山より製鉄技術者でキリシタンであったといわれる千松大八郎・小八郎の兄弟技師を招き、当時最先端だったヨーロッパの技術を活用した製鉄が行われました。
大八郎・小八郎の兄弟技師と仙台藩主導のもと、製鉄所は「炯屋(どうや)」と呼ばれ、ユニークな鉄造りが数多く行われており、この地域で作られた鉄は仙台城の築城にも使われたほか、豊臣秀吉の命で大坂城に2400貫(9000㎏)を送っており、鉄は仙台藩の重要な産物となっていきました。
上述の通り、千松大八郎・小八郎兄弟は熱心なキリスト教信者でもあったため、この地で布教活動が始まったとされています。
1610年仙台藩内でのキリスト教の布教が始まる
そんな中、東北の雄として佐竹、蘆名氏らを破り、勢力伸長めざましい伊達政宗は1610年に江戸屋敷でスペイン人、ルイス・ソテロに会見、ソテロに仙台藩内でのキリスト教布教を認めるとともに、南蛮との通商を計画します。
1613年海外との通商・進行を求め慶長遣欧使節が海を渡る
1613年、伊達政宗の慶長遣欧使節・支倉常長ら一行はイスパニア(現在のスペイン)大使ビスカイノ、ソテロら190名を同乗しキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣されます。
この頃、陸奥国磐井郡藤沢城主・岩淵秀信の次男であり、五島列島(現在の長崎県)宇久島にて洗礼をうけた後藤寿庵(ごとう じゅあん)は支倉常長を通じて陸奥国の戦国大名・伊達政宗に仕え、後藤信康の義弟として見分村(現在の岩手県奥州市水沢福原)1,200石を給され、カルバリヨ(江戸時代初期に来日したポルトガルのイエズス会の宣教師)と親交を深め、江刺・胆沢・登米・栗原など仙北部の布教に努めます。同時期には会津藩主・蒲生氏郷(がもう うじさと)が高山右近(たかやま うこん)の勧めにより洗礼を受けています。
江戸幕府が1612年に禁教令を布告し、南蛮船の入港を平戸・長崎に限定するなか、キリスト教を手厚く保護していた伊達政宗はキリシタン禁制が布告された当初も禁令を放置し、領内での布教を進めていました。
1619年禁教令が全国的に強化される
1619年にはスペイン人のフランシスコ・バラヤス(日本名は孫右衛門)が仙台に来て布教をしています。しかし、同年8月、京都四条河原で徳川秀忠の命により京都のキリシタン52名が火刑されることになります。
秀忠により強化された禁教令は東北にも影響を及ぼします。
1624年東北地方の禁教本格化
1620年に遣欧使節団として旅に出ていた支倉常長はローマより帰国しますが帰国するなり棄教を命じられます。そしてこの頃より伊達政宗はキリシタンへの寛容政策を改め、領内のキリシタン弾圧を始めます。
伊達政宗にも仕え、現在も農業用水として胆沢平野を潤している「寿庵堰」を造った後藤寿庵は転宗を拒み南部藩に身をかくします。
同年には秋田城外の久保田刑場にて男性21人、女性11人が火刑に処され、その後も同刑場にて雄勝郡のキリシタン15人を斬首、同じく秋田藩、仙北郡のキリシタン19人(うち子供が4人)を斬首、盛岡では2名が惨殺、1627年には会津藩でもキリシタン処刑が本格化されます。
皆様が小学校や中学時代によく耳にした「踏み絵」もこの頃に考案し用いられたものとされています。この「踏み絵」は長崎奉行が考案し、東北地方では1629年頃より行われるようになりました。
これによりキリシタン弾圧はよりいっそう強化され、その後も会津では大よそ90人以上が火刑や斬首に処され、1635年には宣教師を含む60人以上が逆さ吊るし十字の刑に処されるなど東北でのキリシタン弾圧は凄惨な歴史を進みます。
1636年、仙台藩はキリシタンの追及を強化、幕府は全国に「南蛮人の子孫を残し置かず詳に堅く申し付くべき事、伴天連訴人褒美の事」と布令し、南蛮系混血児287人をマカオに追放します。
そして同年には長崎の出島も完成し、ポルトガル人の隔離も行われました。
上で書かれているような処刑や追及などは全国各地で行われていました。これにより国民の不満は一気に深まり、前述した「島原の乱」が起きました。
ただし、この乱は幕府側の勝利となり、その規模と団結力に大きな衝撃をうけた幕府は鎖国の強化、そして更なるキリシタン根絶の徹底方針を固めていきます。
そして1639年、幕府の鎖国体制は完全なるものとなりました。
参考書籍
東北隠れ切支丹弾圧の研究 ー 重松一義