【岩手県一関市】後編②東北で広がるキリスト教、隠れキリシタンの里となった宮城県北、岩手県南地域(岩手県南、一関市藤沢のキリシタン史跡)

【宮城県北・岩手県南地域】東北で広がるキリスト教、隠れキリシタンの里となった宮城県北、岩手県南地域(前編)では

  • 日本で広まるキリスト教
  • 東北にも広がるキリスト教

の2つに分け、東北地方の禁教本格化まで書かせていただきました。今回は後編②とし、現在の岩手県南地域に実際に訪れ、今現在どのように殉教地として残っているのか現地の写真とともにご紹介します。

尚、殉教地とされている箇所・隠れキリシタンにまつわる場所は膨大にあるため説明文は簡易的なものとなります。ご興味ある方は記事内を確認していただき実際に訪れてみることを強くお勧めいたします。

岩手県南、一関市藤沢大籠地域のキリシタン史跡

大籠キリシタン殉教公園

大籠キリシタン殉教公園内、大籠殉教記念クルス館

現在の岩手県一関市藤沢町の大籠地域、この地は江戸時代は仙台藩であり、「【宮城県北・岩手県南地域】東北で広がるキリスト教、隠れキリシタンの里となった宮城県北、岩手県南地域(前編)」でも記載したとおり、長い歴史の間キリシタン弾圧を大きく受けた地域でもあります。

殉教者の数は大籠地域だけでも300余人いたとされています。

大籠キリシタン殉教公園はいかなる迫害にも屈せず、信仰の道を守り抜いた大籠の先人たちの崇高な歴史、将来にわたって語り継ぐことと、大籠キリシタンの布教と殉教の歴史を子々孫々に伝えるため、殉教公園として平成6年4月に大籠キリシタン資料館がオープン、翌年の4月に大籠殉教記念クルス館がオープンしました。

広大な敷地内には大籠郷土文化保存伝習館が隣接されており、歴史の庭、大籠キリシタン資料館、そして300余段の歴史の丘を登ったところには大籠殉教記念クルス館があります。

大籠キリシタン資料館、資料館内の撮影禁止
歴史の庭
歴史の丘

大籠殉教記念クルス館へは歴史の丘の階段を登って行くのとは別に、迂回しながら登る「歴史の道」のルートもあります。歴史の道では「十字架の道行」第1留から第14留までが道沿いに設置されており、イエズスの生涯を学ぶことができます。

歴史の道、第11留、「イエズスは十字架にくぎづけられる」

丘を登りきり、頂上に到着すると大籠殉教記念クルス館があり、クルス館前にはヴァチカンのローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世の教皇掩祝(えんしゅく-祝祷の意)もあります。

大籠殉教記念クルス館、正面

ローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世の教皇掩祝

教皇掩祝

神の絶えざる御加護を願って、佐藤守藤沢町長様並びに殉教者を尊んでこの地を訪れる人びとに、心からの教皇特別掩祝をおくります。

ヴァチカンにて  1995年9月18日

またクルス館内には岩手県一戸町出身で田沢湖の「たつこ像」、長崎市西坂公園の「長崎26殉教者記念像」を制作した彫刻家、舟越保武氏の三体の作品と大籠へのメッセージが展示されています。

Information

  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠字右名沢28-7
  • 電話番号 : 0191-62-2255
  • 開館時間 : 9:00~16:00
  • 休館日 : 月曜日
  • 入館料(大籠キリシタン資料館、大籠殉教記念クルス館)
    • 一般 : 300円 高校生・大学生 : 200円 中学生以下 : 無料

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カトリック大籠教会

カトリック大籠教会

カトリック大籠教会は仙台教区、浦川和三郎司教から岩手県の布教を委任されたスイスのべトレヘム外国宣教会が、1952年に大籠の殉教者を顕彰するために建立しました。

同年の12月11日にはローマ教皇、使節ヴァチカン公使フルステンベルク大司教によって献堂祝別式が挙行されています。

Information

  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠

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祭畑刑場(まつりばたけいじょう)

祭畑刑場

8基の地蔵尊があり、刑の執行中に逃げ近くの洞穴に隠れていた信者を仙台藩の役人が煙で燻り出し、飛び出してきた人を川向の約40m離れた草地の松の枝に鉄砲を乗せ狙い撃ちした場所とされています。

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  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠曽根

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上野刑場(うえのけいじょう)

上野刑場

通称「オシャナギ様(若木様)」と呼ばれ、幼い子供まで供養したのではないかと推測されています。寛永17年(1640)、信徒94名がこの場所で所成敗となりました。

※所成敗(ところせいばい) – キリシタンを処罰する行為

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  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠

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地蔵の辻(じぞうのつじ)

地蔵の辻

ここは無情の辻とも呼ばれ、寛永16年、17年に打首、十字架(ハリツケ)等により両年で信徒178人が所成敗となった場所です。当時、殉教の鮮血によって近くを流れる二股川は真っ赤に染まったと伝えられています。この辻は仏縁に名を借りて殉教者の菩薩を弔うために建立されたといわれています。

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  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠

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首実験石(くびじっけんいし)

首実験石

キリシタン信徒刑死の時、伊達藩の検視役がこの石に腰を下ろし処刑を監視したと伝えられています。石は以前まで沢ノ入沢川の土手にあったものを現在地に移設しました。

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  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠

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保登子首塚(ほどこくびづか)

保登子首塚

上大籠部落で殉教者の首を埋めたとされる場所です。

荒屋敷の先祖3人が処理埋葬され、荒屋敷西側丘の松林に3基の供養塔が普通の墓石とは反対の北向きに建てられています。

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  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠山下

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トキゾー沢刑場

トキゾー沢刑場

「徒刑場沢」が訛って「トキゾー沢」になったと伝えられています。石碑が2基建ち、この碑には「寛政庚戌九月(寛政2年)」と彫られ、施主と長松以下12名の処刑者の名前が刻まれています。ここで処刑された殉教者の首は架場首塚に運ばれました。

また、直ぐそばにも関連は不明ですが沢山の石碑があります。

トキゾー沢刑場直ぐそばの石碑

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  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠

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架場首塚(はせばくびづか)

架場首塚

前述した「トキゾー沢刑場」で処刑された殉教者の首を架掛け(はせがけ)にして晒したのち、処刑の理由書とともに埋めた所とされています。本記事内で記載している処刑の場所がすべて現在の県道295号線(藤沢大籠線)沿いにあるのは見せしめのためであったとされています。

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  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠高金9

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上ノ袖首塚(うえのそでくびづか)

上ノ袖首塚

地蔵の辻で処刑された殉教者の遺族が夜陰に紛れて首を盗み、着物の袖に包み隠して持ち帰ったが、部落に戻る途中泣きながら、この山道に埋め置いたと言われています。

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  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠

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台転場(だいてんば)

台転場

千松集落の中央にある台転場は、切支丹改めの場として知られています。役人が信徒であるか否かをことごとく検問した所で、両側に柵をめぐらせ通行人一人ひとりを木戸口から通して「踏絵」が行われた場所です。

踏絵を拒んだ者は容赦なく地蔵の辻まで連行され、処刑されました。

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  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠青松

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千松大八郎の墓(せんまつだいはちろうのはか)

千松大八郎の墓

この地に製鉄技術とキリスト教を伝え広めたとされる千松大八郎の墓とされています。昭和3年、東北帝国大学村岡典嗣教授の調査により大八郎の墓である事が判明、上部に三位一体を表すマークが記されています。

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  • 所在地 : 〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠青松

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長徳寺(ちょうとくじ) 殉教者顕彰慰霊伝承之碑

長徳寺

岩手県一関市藤沢の長徳寺は元は仙台藩領内のお寺であり、潜伏していたキリシタンを檀家に組み込み、匿っていたとされるお寺です。

その証は宮城県登米市の米川カトリック教会に貯蔵されていた当時の「宗門改帳(キリシタンの取締りを目的に幕府が全国の大名に指示した信仰に関する調査書)」により明らかになりました。これに記された人は長徳寺の檀家であり、キリシタンではないことを証明するものです。キリシタンと分かってはいても仏教徒という事にし、信仰はお任せする。命を助けるために偽装したとされる「宗門改帳」が、ここ長徳寺で記されていました。

2022年の9月には長徳寺にて初となる仏教とキリスト教との合同慰霊祭が行われました。寺内には十字架が象られた慰霊碑も建立され、当日の慰霊祭ではお経と聖書が詠まれています。

キリシタン慰霊碑

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  • 所在地 : 〒029-3521 岩手県一関市藤沢町保呂羽宇和田18

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まとめ

この大籠地域での殉教者数は300余人とされています。多い、少ないなど関係ありませんがその悲しみや絶望はあまりにも大きかったと考えられます。現地で様々な殉教地を訪れましたが言葉になりません。

もともと伊達藩はキリスト教には寛容であり、日本の中で一番最後までキリシタンが許されていた場所ともされています。さらに、当時は絶対的な主権者であった徳川家康に対し、「我が領だけはキリスト教の布教を認めろ」と駆けあったとさえされています。

ただし、その願いは遠く及ばず、キリシタンを黙認することが出来なくなり、幕府の指示に従わざるを得なくなりました。

時代は同じことを繰り返す、とよく聞く言葉ではあります。今後二度と同じことを繰り返さぬようご興味ある方は是非一度現地まで訪れてみてください。


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