【秋田県八郎潟町】八郎潟干拓地はどうやってできたのか-八郎潟干拓の歴史②

八郎潟干拓(かんたく)は、1957年(昭和32年)から1977年(昭和52年)まで21年の歳月をかけて1万5,666ヘクタールという広大な大地を創出しました。そこには大潟村という新しい村ができ、稲作を中心として約1,100世帯3,000人(2023年6月1日現在大潟村ホームページより)が暮らしています。

海に囲まれ狭く、しかも平地の少ない日本では、農地として活用できる土地が少なく、慢性的に農地不足に悩まされてきました。農地を増やすためには山を開墾するか、湖沼や浅い海岸を土砂で埋めたり、水を抜いたりして農地にするしかありません。


海や湖沼の一部を堤防で囲い、中の水を抜いて現れた土地を利用する「干拓」

干拓」は、遠浅の海や湖沼の、堤防を築いて内部の水をくみ出して、底の土地をそのまま利用する方法です。干拓は多くの土砂を運んでくる必要がないため、広大な土地を創出できます。その多くが農地を拡大するために行われています。その歴史は古く、飛鳥時代に有明海で行われたものが最初だと考えられていて、ほかにも瀬戸内海の児島湾(こじまわん/岡山県)や諫早湾(いさはやわん/長崎県)、河北潟(かほくがた/石川県)、印旛沼(いんばぬま/千葉県)などが規模的に大きな干拓地として知られています。干拓事業は、2008年(平成20年)3月に完成した「国営諫早湾干拓事業」が最後となっています(2024年現在)。


海岸や海などを埋めて新しい土地を創出する「埋立」

一方で、海や湖沼を土砂で埋める「埋立(うめたて)」も、古来盛んに行われてきました。埋立は、主に土地を広げて港湾設備を増備したり、人工島を造ったりして町や工場、空港などに利用します。古くは砲台にも使われていました。人工島としては平安時代末期の将軍平清盛(たいらのきよもり)が兵庫県神戸市沖に造った「経ヶ島(きょうがしま)」が最初だろうと考えられています(正確な場所は分かっていません)。

代表的な埋め立て地は「出島」(長崎県)、お台場(東京都)、ポートアイランド(兵庫県)、関西国際空港(大阪府)、羽田空港など数え上げたら切りがありません。意外と知られていないのが、江戸時代に造られた銀座や築地(東京都)で、江戸城前の東京湾に全国の大名が江戸城裏の神田山から土砂を運んで造った埋め立てたのです。埋立に関しては、東京湾や大阪湾、沖縄県辺野古など現在も多くの大規模事業が進行中です(2024年現在)。


干拓では水の管理が最大の生命線

干拓予定地を囲む51.5kmもの堤防(茶色部分)造りからスタート ©秋田県秋田地域振興局 農林部

八郎潟の干拓は、湖の中心部70%あまりを干拓し、その周りに湖水をそのまま残すという方法がとられています。工事はまず干拓地を囲む堤防を構築して、中の水を抜きます。堤防の外に湖水を残したのは、流入する川などの水の調整と、干拓完了後に必要となる農業用水や生活用水の確保のためでした。

堤防の役割は外部から水の侵入を防ぐことです。干拓は水を抜くだけなので、新たにできた土地の標高は水面とほぼ同じか低くなります。そのため想定外に入ってくる外からの水は、干拓地を死に追いやります。堤防には数カ所に排水ポンプが据え付けられました。排水ポンプは、干拓地内の水を外部に流すためのもので、干拓終了後も、必要以上の雨や農業用水、生活用水などを排出するために使われています。

堤防の工事は総延長51.5kmあり、外側は南側に4,000ヘクタールもの大きな残存湖(調整池)を残しました。ほかは、水路のような湖水面(承水路=しょうすいろ)が干拓地を取り囲みます。


堤防造りには超難関。軟弱盤だった湖底の地盤。堤防の基盤に湖底のヘドロを利用

八郎潟
軟弱な地盤を作り出していた湖底のヘドロ(砂)。この砂を堤防に利用 ©大潟村干拓博物館

八郎潟は水深が浅く、しかも湖底が平坦で干拓には適していたのですが、湖底には50mにも達する柔らかいヘドロが堆積している超が付くほどの軟弱地盤だったのです。干拓するためにはその地盤の上に堤防を造らなくては事業自体がスタートできません。日本が持っている技術では対応できなかったのですが、干拓先進国オランダではその難問を解決できる工法を持ち合わせていたのです。

大潟村干拓
湖底の砂を堤防に利用できるか試験堤防を造り確認 ©大潟村干拓博物館

堤防を造るには堤防に使う土砂が大量に必要になってくるのですが、八郎潟周辺には土砂を取れる山があまりありません。しかし、これにはこのヘドロ層が役に立ちました。つまり湖底にある砂状のヘドロを使って堤防を造ることができることが分かったのです。しかし、砂を盛り上げただけでは、すぐに壊れてしまうため、表面をアスファルトで舗装し強度を増しました。

大潟村干拓
湖底からヘドロ(砂)を浚渫船(しゅんせつせん)ですくい、運搬船に乗せてタグボートで引いて堤防予定地に運ぶ ©大潟村干拓博物館

歴史的名所三倉鼻近くの小高い山を購入して補強の岩石を確保

アスファルトで補強したとはいえ、それだけでは完璧とはいえません。そこで、堤防の強化と波の力を軽減するために、堤防の足下に大きな石を並べることにしました(捨石工事)。長大な堤防に使う膨大な量の岩石をどこから調達するかが大きな問題でしたが、そこは国の最優先事業です。付近の山を1つ買ってしまったのです。

筑紫岳
筑紫岳の採石場。124万トンもの岩石が切り出された。現在は民間の採石場 ©大潟村干拓博物館

堤防補強のために購入されたのは、八郎潟の東岸中央部、現在の八郎潟町(はちろうがたまち)と三種町(みたねちょう)の町境にある景勝地、三倉鼻(みくらはな)に隣接する小高い山、筑紫岳(ちくしだけ)で、そこから運び出された岩石は124万トンにもなったといわれています。

八郎潟の干拓は、1963年(昭和38年)11月12日に堤防が完成したのですが、捨石工事は1964年(昭和39年)までかかっています。

堤防が完成したらいよいよ水を抜いて大地を造る作業です。


菅江真澄が何度も訪れた八郎潟伝説が残る「三倉鼻」

三倉鼻は八郎潟沿いにある小高い丘で、八郎潟という名称に由来のある八郎太郎伝説(「八郎潟の三湖伝説」)に所縁のある歴史的な名所です。展望台からは干拓された一面田んぼになった旧八郎潟が望めます。また八郎潟干拓が始まる前、調査に訪れたオランダの干拓専門家ヤンセン教授とフォルカー技師が記念植樹をした記念碑(「八郎潟干拓調査記念樹」)が建っています。

八郎潟の沿岸はほとんどが平坦なのですが、三倉鼻は山の斜面が直接八郎潟に落ち込んでいるため、八郎潟東岸を通り能代や津軽に行ける街道のちょっとした難所になっていました。しかし、三倉鼻は松が生い茂り、眼前に八郎潟が広がる景勝地だったため、江戸から明治時代にはこの街道を利用する人が多かったといわれており、久保田藩は街道整備をしています。菅江真澄も三倉鼻を訪れて図絵を残しています。

三倉鼻
菅江真澄が描いた「三倉鼻」。描かれている「夫殿の岩窟」という祠(ほこら)は、現在も残っている (真澄遊覽記[第40冊(巻27-巻29] 雄鹿乃春風) 所蔵:国会図書館

筑紫岳は、三倉鼻の東側を走るJR奥羽本線の反対側にある小高い山で、麓部分は八郎潟町によって「南面岡(ひづらおか)公園」として整備されています。公園の奥には現在も採石場として使われている場所がありますが、採石場の一部に八郎潟のために削られた採石場とおぼしき跡が残っています。

三倉鼻からの田園風景が広がる大潟村。中央にあるのは東部承水路から取り込む農業用水の取水管 ©大潟村干拓博物館

三倉鼻公園<Information>

  • 施設名称:三倉鼻公園
  • 所在地:秋田県八郎潟町真坂三倉鼻
  • 電話番号:018-875-5803(八郎潟町産業課)
  • 散策自由
  • アクセス:
  • 公共交通機関/JR奥羽本線八郎潟駅からタクシーで約5分
  • 車/秋田自動車道五城目八郎潟ICから約5分

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八郎潟干拓事業面積
  • 干拓面積     中央干拓地15,666ha、周辺干拓地1,573ha
  • 農地面積     中央干拓地11,741ha、周辺干拓地1,051ha
八郎潟国営干拓事業
  • 中央干拓堤防   51.5km
  • 排水機場     2力所(南部・北部排水機場、最大排水量40m3/s/カ所)
  • 幹線排水路    22.6km(中央幹線排水路 15.7km,1級幹線排水路6.9・) 支線・小排水路  620.7・
  • 西部承水路    水位調節用機場2力所(浜口機場と南部排水機場の用排水兼用ポンプ)
  • 取水工      19力所
  • 幹線用水路    93.6km
  • 小用水路     447.5km
  • 道路道路     653.0km(幹線道路73.4・、支線及ぴ農道579.6km)
  • 橋梁       25カ所防潮水門総延長390m、
  • 可動堰      10門(ローラーゲート)と固定堰2箇所
  • 船越水道延長   1900m 幅390m
  • 改修河川     22河川、28.5km
  • 周辺干拓施設堤防 延長48.1km、
  • 排水機場     26カ所

出典:農業農村整備情報総合センター「水土の礎」


大潟村<Information>

(「八郎潟干拓の歴史3」に続く)


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