【連載:奥の細道を辿る⑤】峠の細道と厳しい関所に苦しみながら出羽の国へ
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江戸からはるばる奥州平泉を訪ねて大きな目的を果たした松尾芭蕉(まつおばしょう)と河合曾良(かわいそら)は、岩手県の一関(いちのせき)から出羽(でわ:山形・秋田)へ向かいました。 曾良の旅日記では元禄2年(1689年)5月14日(新暦6/30)に一関を発ち、宮城の岩出山を経て今は国道47号線の堺田越(さかいだごえ)から山形に入ります。
奥の細道とは?
「奥の細道」とは、俳人・松尾芭蕉が弟子の河合曾良と、江戸から陸奥を巡り北陸から岐阜の大垣まで、各地で俳句を詠みながら歌枕と名所旧跡を訪ね歩いて旅行した紀行文集です。
歌枕とはいにしえの都の歌人たちが、そのイメージや情緒を想像して和歌に織り込んだ名所旧跡のことを指し、歌人や俳人には憧れの的でした。
序文の「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也」は、「月日は永遠の旅を続ける旅人で、去る年も来る年も同じように旅人だ」と訳され教科書に登場します。
みちのくの風土とそこで詠まれた俳句が紹介されていて、元禄2年3月27日(1689年5月16日)の旅立ちから156日間約2,400kmの道のりの記録です。
【岩出山】一関から鳴子温泉を目指すも日暮れで引き返し岩出山に泊る
芭蕉は岩出山を一度通過して、「小黒崎(おごろざき)」と「美豆(みず)の小島」という江合川沿いの2つの歌枕に立ち寄りますが、本文では名前が書かれているだけです。
現在の小黒崎は以前あった芭蕉像が撤去され、美豆の小島は「川の中州の松が生えた岩」が豪雨で土砂に埋まってしまい、どちらも案内版だけがむなしく立っています。
芭蕉はここから鳴子温泉まで距離があるため、岩出山に引き返し旅籠(はたご)に泊まりました。
ちなみに、岩出山の街には伊達政宗が仙台城を築く前に本拠地とした岩出山城跡があり、きれいな古い街並みが今でも残っていて街歩きを楽しめます。
岩出山城跡<Information>
- 施設名:岩出山城跡(岩出山要害跡)
- 所在地:宮城県大崎市岩出山城山
- 電話番号:0229-72-1211(大崎市役所岩出山総合支所 地域振興課)
- URL:大崎市公式サイト(おおさき観光情報)
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【尿前の関】関所越えと峠越えの厳しさを知る
国境にある峠は、堺田越(さかいだごえ)とも中山越とも呼ばれていて、標高は低いながらも険しい「細道」が続く難路でした。
しかし、厳しいのは道だけでなく、峠の宮城側にある仙台藩の関所「尿前(しとまえ)の関」では通る旅人が少ないためか、芭蕉と曾良は役人に怪しまれ調べに時間がかかってしまいます。
その後、雨の中堺田の集落で国境警備を任されている「封人」の家に泊めてもらいますが、大雨で動けずここに2泊します。
大きな囲炉裏(いろり)がある立派な民家で、現在も国の重要文化財「旧有路家住宅(ありじけじゅうたく)封人(ほうじん)の家」として内部を見学できます。 また堺田周辺は馬産地で、大切な馬を寒さから守るために家の中で飼育しており、その風情に感動した芭蕉はここで1句残しました。
尿前の関<Information>
- 施設名:尿前の関
- 所在地:宮城県大崎市鳴子温泉尿前140
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蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと(芭蕉)
直訳すれば「貧しい民家に泊まるとノミやシラミに食われ、枕もとに馬がいてその尿の音が響く」との意味ですが、芭蕉はそんな馬の尿の音にもしなびた情緒を感じて句にしたのでしょう。
この句をひどい目にあった苦情との解釈がある反面、雪深い地で馬を家の土間で飼い家族同様に大切にしていることに、芭蕉が心を打たれたとする解釈も多くあります。
旧有路家住宅<Information>
- 施設名:旧有路家住宅(封人の家)
- 所在地:山形県最上郡最上町堺田59-3
- 電話番号:0233-45-2397
- 観覧時間:9:00~17:00
- 定休日:なし
- URL:山形県公式観光サイト
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【尾花沢】芭蕉が惚れた俳人との再会を喜び長期滞在
堺田から封人の勧めで地元の若者を護衛に雇い、山賊が出るという山刀伐(なたぎり)峠を無事に越えて、5月17日(7/3)に芭蕉と曾良は羽州街道の宿場町「尾花沢」に到着しました。
芭蕉を迎えたのは、俳諧仲間の鈴木清風(本名は鈴木八右衛門)という、出羽の俳壇を代表する大商人です。
芭蕉は本文にその人となりを「富裕だが心根は卑しくなく、私たちの長旅を労い何日も逗留させてもてなしてくれた」と書いています。
また清風は養蚕業の最盛期で忙しく芭蕉たちが落ち着かないだろうと、眺めの良い養泉寺に泊まるように勧め、彼らは尾花沢10泊のうち養泉寺に7泊しました。
清風のもてなしへの感謝として、芭蕉は尾花沢の章に句を3つ(曾良が1句)載せています。
涼しさを 我宿にして ねまる也(芭蕉)
「この涼しい宿で、まるでわが家にいるようにくつろいでいる」として、清風のもてなしへの謝意と、厳しい山越えを振り返り安堵した気持ちを述べた句とされています。
「ねまる」とはこの地方の方言で「くつろいでいる」と言う意味です。
這出よ(はいいでよ) 飼屋(かひや)が下の 蟾(ひき)の声(芭蕉)
「飼屋の下から声を出すひきがえるよ、ここにはい出ておいで」との意味で、飼屋は蚕の小屋、蟾とはヒキガエルで、夏の季語を表わしています。
「ヒキガエルは蚕を食べる」と困っている家人の声を聴いた芭蕉が、ヒキガエルに「顔を見てやるから出ておいで」と語りかけている情景が目に浮かびます。
眉掃(まゆはき)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花(芭蕉)
「紅花を見ていると、女性が化粧につかう眉掃きを想像させる」という意味で、女性の唇を艶やかにする紅の原料、紅花の形をお化粧用の刷毛にたとえて色気を感じさせる句です。
なお、清風は、尾花沢を含む山形の名産である紅花(べにばな)販売を稼業としていました。
芭蕉・清風歴史資料館<Information>
- 施設名:芭蕉・清風歴史資料館
- 所在地:山形県尾花沢市中町5-36
- 電話番号:0237-22-0104
- 営業時間:9:00~16:30(3月~10月)、9:30~16:30(11月~2月)
- 定休日:年末年始(12月28日~1月4日)
- URL:尾花沢市役所公式サイト
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【立石寺】陸奥有数の霊山、山寺で名句を残す
5月27日(7/13)、清風に別れを告げ山形市に向かう途中にある、「山寺」とも呼ばれる宝珠山阿所川院(ほうじゅさんあそかわいん)立石寺(りゅうしゃくじ、りっしゃくじ)に立ち寄ります。
一行が着いた時間がすでに夕方であったため、予定を変更して寺の宿坊に一泊しました。
こちらは山門から最も上の「奥の院」まで行くには1,015段の石段がある山寺で、参道のみやげ物屋で食べられる醤油味の玉こんにゃくを串に刺した「力こんにゃく」が有名です。
閑さや(しずかさや) 岩にしみ入る 蝉(せみ)の声
「ああ、なんて静かなのだろう、蝉の鳴き声が岩に染み入るかのようだ」という意味のこの句は、芭蕉の句の中で優れているとされる俳句です。
芭蕉は立石寺を「佳景寂寞」と本文に書き、この四字熟語は「景色が美しく、ひっそり静まりかえっている」状態を表わし、静寂によって心が澄み渡ったとしています。
立石寺(山寺)<Information>
- 施設名:宝珠山 立石寺(山寺)
- 所在地:山形県山形市山寺4456-1
- 電話番号:0236-95-2002
- 拝観時間:8:00~16:00
- URL:立石寺公式サイト
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【奥の寄り道⑤】本文に登場する俳句の数は?合流した低耳とは?
「奥の細道」の4つの原本での俳句数は62句で違いはなく、芭蕉が50句と曾良が11句に、実は1句だけ「低耳(ていじ)」という美濃の商人の句が入っています(芭蕉51句、曾良10句との説あり)。
低耳は本名を宮部弥三郎といい、山形県酒田市で合流してからは宿を紹介するなど重要な働きをしていて、芭蕉の到着を待つ大垣藩から派遣されたサポート役ではないかとする説があります。
まとめ
芭蕉一行は宮城から山形への峠越えで、宮城側の関所で不審がられてなかなか通れず、峠では大雨に足止めされるなどかなりの苦労を強いられました。
苦難の末に出羽に入った一行は、山寺から次の目的地である象潟(きさかた)に向かいますが、その前に日本三大修験道のひとつ出羽三山に立ち寄ります。
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