三湖伝説の三匹の龍

【北東北の三湖伝説:前編】三県を股にかける壮大な民間伝承「三湖伝説」って知ってる?

青森・秋田・岩手にまたがる北東北の大自然には、古来より不思議な伝説が語り継がれてきました。その中に「三湖伝説」と呼ばれる壮大な民間伝承が存在します。

舞台となるのは、秋田県の八郎潟田沢湖、そして青森県と秋田県にまたがる十和田湖。この三つの湖にそれぞれ棲むとされる龍神たちが出会い、戦い、そして繋がっていく……そんな物語があるんです。

さらに岩手県も巻き込んだ北東北の各地に、龍神の旅の寄り道譚などのサイドストーリーが存在し、物語の全容を把握することが困難なほどの大作伝承となっています。

しかし、この物語は最初から「三湖」をめぐる一つの物語だったわけではなく、もとは別々の場所で語られていた伝承が、後世になって統合されて完成した物語のようなのです…。

今回はそんな「三湖伝説」を出来うる限り紐解いてみようと思います。


「三湖伝説」を紐解く上で大事なこと

およそ地域の民間伝承とは思えないボリュームの物語が語り継がれている「三湖伝説」ですが、もともと一つの物語ではなく、時代を経てどんどん肉付けされて、現在でも進化を続けている物語だと考えられます。

調べれば調べる程に情報が乱立している状況で、筆者自身も混乱するばかりでした…。なので前提として「三湖伝説は歴史的裏付けが存在しない民間伝承をもとにしており、様々な矛盾を内包している」ということはご理解ください。例えば以下のようなものが含まれます。

  • もともとは各地に伝わっていた独立した伝承だった
  • 口伝レベルの曖昧な伝承もある
  • 参考文献ごとに物語の細かい描写や登場人物の名前が違う
  • 数百年続いた伝承の中で各時代の研究者たちの独自の考察や解釈が積み重ねられた
  • 関係がない伝承の登場人物を三湖伝説の登場人物に置き換えて物語が肉付けされた
  • 大正〜昭和期頃に再話文学として書き直された
  • 観光PRや民話絵本などによる創作・拡張

…こういった様々な事象が複雑に絡み合っているので、物語の真の姿は霧の中です。この記事はあくまで筆者が調べて理解した独自の考察となっています。


三湖伝説は八郎潟・十和田湖・田沢湖に住む龍神の物語

三湖伝説の主軸となるストーリーは以下のようなものです。


八郎太郎が龍神となる

その昔、八郎太郎という、身の丈6尺(約180㎝)あまりの力持ちの若者がいました。

ある日、八郎太郎は「マダ」という木の皮を剥ぐため、仲間と一緒に十和田の山奥へと向かいました。

炊事番だった八郎太郎は3匹のイワナを捕まえ、串に刺し焼き始めましたが、空腹から自分の分を先に平らげます。あまりの旨さに手が止まらなくなった八郎太郎は残った仲間の分のイワナも全て食べてしまいます。

しばらくすると喉が渇き始め、手持ちの水を飲みほしても足りず、沢に顔をつけて水をがぶがぶと飲みだします。いくら飲んでも喉の渇きは癒されず、違和感を感じた八郎太郎は水面に映った自分の姿を覗き込みます。

龍へと変貌する八郎太郎
龍へと変貌する八郎太郎

するとそこには鱗に覆われた龍の姿が。八郎太郎は龍になってしまっていたのです。

戻ってきて驚く仲間たちでしたが、一緒に村に帰るわけにはいかず、八郎太郎は泣きながら仲間と別れ、沢の流れをせき止めて作った湖「十和田湖」に住むようになりました。

南祖坊と十和田湖の主の座をかけて争う

八郎太郎が主となりしばらくすると、南祖坊という修行僧が十和田湖へとやってきます。南部出身のこの僧は、紀州熊野で修行を積んでいたところ、権現様から鉄の草鞋と杖を授かり「これを履いて諸国をまわり、草鞋が切れたところを住処とせよ」というお告げを受け、この地を訪れた折にお告げ通り鉄の草鞋が切れたのでした。

八郎太郎と南祖坊の戦い
八郎太郎と南祖坊の戦い

十和田湖を永住の地としようとした南祖坊でしたが、そこには既に八郎太郎が住んでいます。両者は湖の主の座をかけて争うことになり、七日七晩も続いた戦いの末、勝者となったのは南祖坊でした。居場所を失った八郎太郎は安住の地を求め西へとさ迷い歩いていきます。

そして勝者となった南祖坊も十和田湖に入水し、龍神へと変貌し、この地の主となりました。

敗走した八郎太郎は各地を放浪し八郎潟へと辿り着く

米代川を下りながら西へと向かう八郎太郎は様々な場所で留まろうとしますが、その都度、先住の土地の神々に追われてしまいます。南のほうにいい土地があるという話を聞きつけた八郎太郎は今度は南のほうへと流れていきます。

大地を割り八郎潟を創り出す八郎太郎
大地を割り八郎潟を創り出す八郎太郎

やっと目的の土地に着き、周辺の人々に湖を作ることを告げると、大地が割れ、大水を呼び寄せ瞬く間に湖を作り出します。こうしてできたのが八郎潟で、八郎太郎はその湖の主として定住します。

田沢湖では辰子が龍神となる

その頃、田沢湖のあたりに辰子という美しい娘が暮らしていました。辰子はその若さと美しさを永遠のものにしたいと願い、観音堂に通いつめ毎晩願掛けをしていました。

白竜へと変貌する辰子
白竜へと変貌する辰子

そして百日目の満願成就の日にお告げを授かり、「田沢湖のそばの泉の水を飲めば、永遠の美しさを得られる」と示されます。辰子がお告げの通りに泉を見つけ水を飲むと、辰子の姿は龍の姿に変わってしまいました。

何日も家に戻らない辰子を心配した母は、田沢湖のほとりで龍になった辰子を見つけます。しかしもう家に戻ることができない辰子は泣く泣く母と別れると田沢湖を住処とし、この地の主となったのでした。

辰子の噂を聞いた八郎太郎が田沢湖を訪れる

その後しばらくして、八郎太郎は八郎潟にやってきた渡り鳥から田沢湖の辰子の噂を聞きつけます。そして辰子に会いに田沢湖を訪れたところ、辰子はその来訪を喜び、八郎太郎の想いを受け入れたのでした。

田沢湖で仲睦まじく過ごす八郎太郎と辰子
田沢湖で仲睦まじく過ごす八郎太郎と辰子

それ以来、八郎太郎は冬になるたびに田沢湖を訪れ、辰子と共に暮らすようになりました。このことから、八郎潟は主が不在の冬に凍るようになり、八郎太郎と辰子姫の二龍神が暮らす田沢湖は、冬も凍ることなく深さも増していったといわれています。


三湖伝説は元来別々だった伝承が融合した物語?

以上が三湖伝説の柱となる物語なのですが、これは元々

  • 八郎太郎という若者が龍神と化し八郎潟の主となった
  • 南祖坊という僧が修行の末に十和田湖に入水し、十和田青龍権現として祀られるようになった
  • 辰子という美しい女性が永遠の美を求め龍神と化し田沢湖の主となった

というそれぞれの地元で語り継がれる独立した民間伝承が、いつの頃からか融合・脚色され一つの物語として語られるようになった。という可能性があるようです。

実際「三湖伝説」という呼称は江戸時代以前の文献では確認されておらず、この言葉が広まり始めたのは、昭和後期〜平成初期にかけての郷土史・観光資料・児童文学においてではないか?と考えられます。


室町時代に「三湖伝説」のベースとなったと思われる話が存在する

室町時代に玄棟という人物によって成立したとされる説話集『三国伝記』の中に、三湖伝説のベースとなったと思われる話が存在します。

中頃、播州書写山の辺りに、釈難蔵という法華の持者がいた。参詣すでに30度という熱心な熊野権現の信者だったが、生きながら弥勒の出生に会いたいと願い、3年間参籠して祈ったところ、千日目の夜「ただちに関東に下向して、常陸と出羽との境にある言両の山に住むならば、弥勒の下生に値遇できるであろう」との夢告があった。さっそくその山に行くと、頂には円形で底知れない深さの池があった。その畔で『法華経』を読誦していると、年のころ18、9の女性が毎日現れて聴聞する。難蔵が不思議に思っていると、女は「私の住処に来て衆生のために法華を読誦して欲しい」という。難蔵が「私はここで弥勒の出生を待っているのだから、よそには行けない」と断ると、女は「私はこの池の主の竜女です。竜は一生の間に千仏の出生に会うほど長命な生き物、私と夫婦になって弥勒の下生を待ってはいかが」という。難蔵はなるほどと思案をめぐらし、女とともに池に住むことにした。ある日、女がいうには「この山の三里西にある奴可の山の池にいる八頭の大蛇が私を妻にしていて、1月の上15日は奴可の池に住み、下15日はこの池に来るので、もうやってくる頃です」と。難蔵は少しも怯まず、『法華経』8巻を頭上に置いた。すると、難蔵の姿はたちまち九頭竜と変じ、八頭の大蛇と食い合うこと七日七夜、ついに八頭の大蛇が負けて大海に入ろうとしたが、大きな松が生じて邪魔をしたため、威勢も尽きて小身となり、もとの奴可の池に入った。いまでも言両の池の側で耳を澄ますと、波の下に読経の声が聞こえるという。

引用:Wikipedia「三湖伝説」

もちろん違う部分も多々ありますが、物語の中に登場する単語を

  • 釈難蔵 > 南祖坊
  • 八頭の大蛇 > 八郎太郎
  • 竜女 > 辰子
  • 円形で底知れない深さの池 > 十和田湖または田沢湖
  • 奴可の池 > 八郎潟

と置き換えるとストーリーとして非常に酷似していることがわかります。

他にも

  • 『直談因縁集』(1585年):日光輪王寺に伝わる法華経注釈内での似た構造の逸話
  • 『津軽一統志』(1727年):津軽藩の歴史書。「八龍を追い出して十和田湖に入った」南蔵坊の記録の記載がある。

といった文献が存在します。

江戸時代の紀行家「菅江真澄」の考察

江戸時代の紀行家「菅江真澄」の考察も以下のように記載されています。

菅江真澄は『いはてのやま』で、盛岡の永福寺の僧侶南層が八郎太郎を追い出して主になった伝説を記しているが、「しかはあれど」と続いて『三国伝記』のこの話を詳述している。しかし真澄も言両の山の位置関係には納得できず、言両の山は「陸奥の国と出羽の国の境」にあったと書き換えた上で、陸奥と常陸を書き間違っていると念を押し、言両の山は十和田湖、奴可は「八ツ耕田」(八甲田)ではないかと推定している。後に真澄は秋田を漫遊した後で十和田湖に実際に行った時の記録『十曲湖』では「言両」を削除し「奴可」は「齶田」(秋田)の湖と書き改めている。この結果、最初の湖は名前を語らないことでかえって十和田湖であることと、後の湖は八郎潟であるとの考えを明確にしている。

引用:Wikipedia「三湖伝説」

玄棟の説話集『三国伝記』内の記述「常陸と出羽との境にある言両の山」というのは、そもそも国境を接していない国なのでそんなものは存在しません。なのでこの説話は、玄棟が自身の持ちうる知識にある程度の創作を加えて作り出した話という可能性も十分考えられます。

しかしその上で菅江真澄は周辺調査を行い、間違いと思われるものを訂正して、別のものに置き換えた自身の推論を残しています。そして後に十和田湖を実際に訪れた後に再訂正を加えたとあります。

三湖伝説の“体系化”に菅江真澄が関与していた可能性が高い

つまり、菅江真澄が『三国伝記』とこの地の関連を議題提起し、実際に訪れて具体的な地形などを考察して記録を残したことで、さらに後の時代の人間が「菅江真澄の考察の続き」を行い、各地に伝わる伝承と『三国伝記』を融合させ、まとまりのある話として体系化したのが三湖伝説なのではないか?と考えられます。


まとめ

なんとなく「こういうことなんじゃないか?」という整理は自分の中ですることができましたが、結局「三湖伝説」の真の姿に辿り着くことはできませんでした。

その上で最終的には「それよりも時代を重ねて進化していく物語を純粋に楽しむことが重要なんじゃないか?」という考えに至りました。そもそも「龍」が登場しますからね。

後編では北東北各地に散らばる「三湖伝説」の肉付けを行う様々なサイドストーリーを紹介していきます!


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