歴史

【秋田県】戊辰戦争と奥羽越列藩同盟、秋田県内諸藩の事情と決断とは?

幕末の秋田県は、20万石の久保田藩(秋田藩)とその支藩のほかは、2万石以下の亀田藩、本荘藩、矢島藩の小藩ばかりでした。

久保田藩以下、秋田県内の諸藩においてはいずれも勤王論が優勢で、奥羽のなかでは早い段階で官軍として行動します。

四面楚歌の勤王思想・久保田藩(秋田藩)

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久保田藩は公称20万5,800石でしたが、実際の石高は40万石と言われています。

12代藩主の佐竹義堯(さたけ・よしたか)は佐竹氏30代当主(後に32代当主)で、佐竹氏は清和源氏の流れをくみ、関ケ原の戦いまでは常陸(茨城県)54万石の大名でしたが、西軍に味方して減封され国替えされました。

新田分地の支藩が2家あり、居城は久保田城(秋田市千秋公園)です。

東北の20万石以上の大藩で唯一、官軍側についたため集中攻撃を受け、領内の3分の2ほどが焦土となっています。

藩内に息づく勤王思想

久保田藩は幕末の尊王攘夷運動の中心的支柱とされる学者・平田篤胤(ひらた・あつたね)の生誕の地でした。

篤胤は20歳で藩を脱藩・出奔し、江戸で兵法学者の平田篤穏(ひらた・あつやす)の養子となり、様々な学問を学び、「天皇は万国の君主」とする復古神道神学を樹立します。

65歳の時に江戸追放となり、久保田藩に帰参し国学者として召し抱えられ、藩の子弟教育において勤王思想を広め、藩士たちに大きな影響を残しました。

勤王か佐幕か、揺れ動く久保田藩

久保田藩は新政府からの庄内藩討伐の命をうけて亀田藩、本荘藩、矢島藩とともに兵を起こします。

しかし、庄内藩が朝敵とされた経緯を疑う空気が藩内にあり士気は低く、出兵を察知した庄内藩の先制攻撃を受け、総崩れとなって敗退します。

孤軍奮闘の秋田戦争

やがて奥羽越列藩同盟が立ち上がり、仙台に軟禁されていた奥羽鎮撫総督府の九条道孝(くじょう・みちたか)らが解放され、久保田藩領内に入ったために官軍の集結地となります。

そして仙台藩から列藩同盟への参加を促す使者が到着しますが、藩内勤王派藩士が使者を斬り、その成り行きもあって新政府側につき「錦の御旗」を掲げることになったのでした。

庄内藩および列藩同盟との戦い

庄内藩は新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とし、さらに軍勢は連戦連勝に近い状態で、久保田領・矢島領・本荘領を制圧していきます。

庄内藩は内陸の山道口と日本海沿いの海道口から久保田領に攻め込み、亀田藩を降伏させ久保田城に迫りました。

しかし、官軍の増援と新式銃の支給を受けた久保田藩と秋田県内諸藩は、椿台の大会戦において庄内藩を打ち破り、敗北した庄内藩は領内防衛のために軍を帰国させました。

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  • Google Map 久保田城跡

敵対する2つの大藩に挟まれた小藩・亀田藩

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初代藩主・岩城吉隆(いわき・よしたか)は久保田藩初代藩主である佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)の甥で、義宣の養子となり佐竹義隆(さたけ・よしたか)と改名して久保田藩を継ぎました。

また、2代藩主・宣隆(のぶたか)も義宣の弟(義隆の叔父)で、4代藩主までは佐竹一族でした。

そのため亀田藩の初期藩政は久保田藩から全面的に支援を受け、支藩のように扱われていました。

しかし、5代藩主・隆韶(たかつぐ)は伊達氏からの養子で、佐竹氏との血縁関係は無くなり、両藩の関係は次第に疎遠になりました。

大藩にほんろうされ朝敵となる

12代藩主・隆邦(たかくに)をはじめ勤王派が多数であったことから、当初は久保田藩とともに官軍につきました。

しかし、常に先鋒として最前線で酷使され、官軍の監軍としてやってきた山本登雲助(やまもと・とものすけ)の横暴な振舞いに悩まされます。

そして、庄内軍の猛攻を恐れた山本が秋田へ退却し、取り残された亀田藩は庄内藩と和議を結び、列藩同盟に加盟して朝敵となりました。

最後は亀田城を焼かれ官軍に降伏しますが、降伏嘆願書を受けた黒田清隆(くろだ・きよたか)が亀田藩の複雑な事情を理解し、隆邦の隠居と2,000石減封との寛大な処分で済まされました。

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  • Google Map 亀田城跡

久保田藩に従った2つの小藩・本荘藩と矢島藩

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本荘藩主の六郷家は、関ケ原の戦い以前からの国人領主で、2万石の大名扱いでしたが、矢島藩主の生駒家は交代寄合旗本です。

これは旗本の家格のひとつで、領地から参勤交代を行う旗本として大名に近い家格とされています。

本郷藩11代藩主・六郷政鑑(ろくごう・まさかね)と矢島領主・生駒親敬(いこま・ちかゆき)は、いずれも庄内藩に攻め込まれ久保田藩に身を寄せることになりますが、戦後はそれぞれ加増され、生駒家は大名格になりました。

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  • Google Map 本荘城跡
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  • Google Map 矢島(八森)城跡

まとめ

佐竹氏は関ケ原後、徳川幕府によって常陸から出羽に国替えをさせられましたが、それが戊辰戦争で官軍側についた理由の一つとする説もあります。

なお、佐竹義堯には喘息の持病がありましたが、その治療のために藩医の藤井正亭治が蘭学を勉強して作った薬が、今でも咳止めに使われている「龍角散」です。

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盛岡を愛し東北六県を愛し、歴史・グルメ・旅行・スポーツ・お酒・合唱大好きな元江戸っ子オヤジです。
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