【連載:奥の細道を辿る⑦】旅もいよいよ終盤へ、出羽から羽前へ、そして北陸へ
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元禄2年(1689年)6月10日(新暦7/26)、松尾芭蕉(まつおばしょう)と河合曾良(かわいそら)が羽黒山を出発する際、疲れからか芭蕉は馬を借りて下山しました。
山形県鶴岡市の武士の家に宿泊し、俳諧などを楽しんで過ごすなか、芭蕉が体調を崩して12日まで滞在します。
13日に鶴岡から船で酒田に入り、1泊した後に陸奥(みちのく)の旅の目的地の一つ、松島と並ぶ景観で有名な秋田県の象潟(きさかた)へと向かいました。
奥の細道とは?
「奥の細道」とは、俳人・松尾芭蕉が弟子の河合曾良(かわいそら)と、江戸から陸奥を巡り北陸から岐阜の大垣まで、各地で俳句を詠みながら歌枕と名所旧跡を訪ね歩いて旅行した紀行文集です。
歌枕とはいにしえの都の歌人たちが、そのイメージや情緒を想像して和歌に織り込んだ名所旧跡のことを指し、歌人や俳人には憧れの的でした。
序文の「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也」は、「月日は永遠の旅を続ける旅人で、去る年も来る年も同じように旅人だ」と訳され教科書に登場します。
みちのくの風土とそこで詠まれた俳句が紹介されていて、元禄2年3月27日(1689年5月16日)の旅立ちから156日間約2,400kmの道のりの記録です。
【鶴岡・酒田】山形県の庄内に到達して日本海を望む
鶴岡で芭蕉に宿を提供し俳諧を開催した、庄内藩家臣の長山五良右衛門は鶴岡の俳壇では中心的な人物で、羽黒で世話になった近藤(図司)左吉とは旧知の知り合いでした。
13日夕方に芭蕉たちは鶴岡から船で酒田に着きますが、宿泊予定先との連絡が取れず、この日は一般の宿に宿泊します。
翌日14日、連絡が取れた「淵庵不玉」という俳号を持つ医者、伊東玄順宅に泊まりました。
次にご紹介する2つの句は象潟から北陸方面に向かう時に詠んだ句とされ、庄内の俳人たちへの感謝の気持ちを込めて詠まれたと言われています。
あつみ山や 吹浦(ふくうら)かけて 夕涼み(芭蕉)
「あつみ(温海)山が吹浦(海)からの風に吹かれて夕涼みをしているようだ」との意味とされ、あつみ山は山形県南部の温海温泉の背後にある山で、吹浦は酒田に近い遊佐町の海岸です。
「暑さ(熱さ)を吹いて涼んでいる」様子を庄内藩の山海の名称が用いられ、温海町と遊佐町にこの句を刻んだ石碑が建てられています。
暑き日を 海にいれたり 最上川(芭蕉)
「最上川河口の沖に、暑い日をもたらした太陽が沈もうとしている」との意味の句です。
日本海に沈む夕陽を見て、その様子が一日の暑さをすべて海に流し込んでいるようだという心情を表現しています。
芭蕉句碑<Information>
- 施設名:芭蕉句碑(長山五郎右衛門重行の屋敷跡)
- 所在地:〒997-0028 山形県鶴岡市山王町11-18
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【象潟】朝陽が登る松島と夕陽が沈む象潟、異なる趣に感動
芭蕉たちは15日(7/31)に酒田を発したものの雨がひどく、この日は遊佐町の吹浦で宿泊して翌日雨の中を秋田県に入り、お昼ごろ象潟に到着します。
一行に岐阜の商人とされる弥三郎(低耳)が酒田で加わり、一緒に象潟を見物しています。
17日(8/2)は雨が上がり象潟観光に出かけ、偶然に熊野神社のお祭りを見たり、舟で能因法師ゆかりの能因島などを回ったりして、松島とはまた違う趣を感じたようです。
当時の象潟は松島のように海上に大小の島々が浮かび「九十九島」と呼ばれていましたが、1804年の「象潟地震」で2m以上も隆起したため、島々が陸地の小山と化して現在の姿となりました。
象潟や 雨に西施が ねぶの花(芭蕉)
「象潟の海辺に咲くねぶの花(合歓の花)が雨に打たれている姿は、中国の伝説の美女、西施(せいし)がうつむいている姿のようだ」という意味で、可憐な白い合歓の花が雨で濡れている姿が、美女がうつむき涙を流しているように感じられたことを表現しています。
芭蕉は「松島は明るく笑っているが、象潟は憂いうつむく美女のようだ」と表現していますが、この句でそのことを伝えたかったのかもしれません。
汐越(しほごし)や 鶴(つる)脛(はぎ)ぬれて 海涼し(芭蕉)
この句の意味は「汐越の浅瀬に鶴が舞い降り、その脛(すね)が海水に濡れて涼しげだ」です。汐越(しほごし)とは象潟と日本海との接続点にあった港町のことで、象潟を汐越と呼ぶこともあったようです。
象潟や 料理なに食ふ 神祭り(曾良)
「象潟は熊野権現のお祭りだが、信仰では魚を食べられない、魚が美味しい象潟なのに何を食べるのだろう?」と、祭りを見た曾良が住民のハレの日の食事に興味を感じて詠んだ句です。
蜑の家や 戸板を敷て 夕涼み(低耳)
奥の細道に一句だけ掲載された低耳の句では「象潟の漁師たちの家では、戸板を敷き並べて縁台にして夕涼みを楽しんでいるのが風流だ」と詠まれ、漁師の素朴な生活が風流だとしています。
象潟<Information>
- 観光名所名:象潟
- 所在地:秋田県にかほ市象潟町大塩越73-1
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【酒田・越後路】持病に苦しみながらの北陸行
一行は18日に酒田に戻り24日まで滞在して、酒田の俳人たちとの交流を楽しみました。
これには芭蕉の体調不安説や、芭蕉が松島や平泉に象潟などの目的地を訪れ満足して虚脱感に襲われていたのではないかとする説もあります。
また、酒田から南下して鼠(ねずみ)の関(鼠が関、念珠が関)を越え越中(富山)の市振(いちぶり)の関までの9日間(実際は2週間以上)は、本文上でわずかに一文です。 これについては芭蕉が本文中に、「暑いのと雨が降るので神経が参り持病に苦しめられ、特別書くようなこともなかった」とその理由を記しています。
念珠関跡<Information>
- 施設名:念珠関跡(鼠が関跡)
- 所在地:山形県鶴岡市鼠ヶ関甲246
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【奥の寄り道⑦】芭蕉と曾良は別行動で奥から北陸へ
越後入りの際、実は山形の温海宿から新潟の村上まで芭蕉と曾良は別行動で、芭蕉は馬で日本海沿いの鼠の関を、曾良は湯温海から山間部を通り村上の中村宿で合流しました。
その理由はどこにも記されておらず、「芭蕉が源義経一行の通った鼠の関にこだわった」、「曾良が温海温泉に行きたかった」などさまざまな説が語られていますが、真実は不明です。
まとめ
みちのくから越後の国境にある鼠が関は、白河の関、勿来(なこそ)の関と並んで、奥羽三関(おううさんかん)とされています。
かつて都から平泉に逃避する源義経の一行が、山伏(修験者)姿でこの関を通過しようとして役人に疑われ、弁慶が泣く泣く疑われた義経を打ち据えて役人に信じさせたとする逸話が残されています。
この逸話を有名にした歌舞伎の「勧進帳」では「安宅関」とされていますが、義経を敬愛する芭蕉はこの鼠が関を越えて、義経が歩んだ北陸路をたどりながら細道の旅を続け、現在の岐阜県大垣市に到着するまで続きました。