【連載:奥の細道を辿る④】芭蕉念願の藤原三代の浄土、平泉に到着


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松尾芭蕉(まつおばしょう)と河合曾良(かわいそら)は、曾良旅日記では元禄2年(1689年)5月10日(新暦6/26)に松島を発ち、石巻(いしのまき)に1泊しました。

しかし、なぜか本文では12日に松島を発ち、宮城県北にある「緒絶え橋(おだえばし)」「姉歯(あねは)の松」などの歌枕を見学する予定が、道に迷って石巻に出たと書かれています。

このことが何を意味するかはわかりませんが、芭蕉と曾良は11日に石巻を出発して宮城県登米市登米(とめしとよま)に宿泊し、12日には岩手県一関市に到着しました。


奥の細道とは?

松尾芭蕉像

「奥の細道」とは、俳人・松尾芭蕉が弟子の河合曾良(かわいそら)と、江戸から陸奥を巡り北陸から岐阜の大垣まで、各地で俳句を詠みながら歌枕と名所旧跡を訪ね歩いて旅行した紀行文集です。

歌枕とはいにしえの都の歌人たちが、そのイメージや情緒を想像して和歌に織り込んだ名所旧跡のことを指し、歌人や俳人には憧れの的でした。

序文の「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也」は、「月日は永遠の旅を続ける旅人で、去る年も来る年も同じように旅人だ」と訳され教科書に登場します。

みちのくの風土とそこで詠まれた俳句が紹介されていて、元禄2年3月27日(1689年5月16日)の旅立ちから156日間約2,400kmの道のりの記録です。


【石巻・登米】道に迷ったのは芭蕉の創作か?

金華山の空撮 みやぎデジタルフォトライブラリーより

本文では道に迷い偶然着いたとある石巻ですが、ここで歌枕の「金華山(きんかさん)」を見たと書かれていることから、実は石巻入りは予定通りとの見方があります。

石巻周辺の高台から金華山は牡鹿(おしか)半島に隠れて見えず、芭蕉が見たのが事実なら、同半島の東岸か先端まで行かなければなりません。

また、二つの歌枕は松島の真北の方向にあり、東の石巻に出るはずがないとも言われています。

さらに石巻では「宿を借りられず貧しげな小家に泊まった」と書かれていますが、曾良旅日記では道中知り合った人物から宿を紹介してもらえたとあり、宿探しの苦労は無かったようです。

そのため本文の記述は、平泉に着くまでに「厳しい旅」だったとする演出ではないかとの説が有力です。

曾良旅日記では、本文で「よそ目に見るだけ」とされた源義経ゆかりの「袖(そで)の渡り」に立ち寄り、現在の石巻グランドホテルの場所にあった旅宿「四兵へ」に泊まっています。

そして翌日、北上川沿いに北上して「戸伊摩(といま)」と書かれた「登米」に宿を取ります。


【平泉】奥州藤原氏三代の栄華と没落、源義経の哀れに落涙

平泉 金鶏山 岩手県観光ポータルサイトより

5月12日(6/28)芭蕉と曾良は雨の降る中を岩手県一関市に到着して宿泊し、翌日13日(6/29)にこの旅の最大の目的とされる平泉に向かいます。

平泉は、奥州藤原氏の最盛期では平安京に次ぐ大都市であり、華やかな仏教文化が開花していました。

平泉 毛越寺 曲水の宴 岩手県観光ポータルサイトより

しかし1189年、源義経をかくまったことを口実に源頼朝に攻められ、奥州藤原氏が滅亡して平泉は衰退してしまいます。

「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」本文にあるこの文言は、唐の詩人杜甫(とほ)の詩「春望(しゅんぼう)」の冒頭「国破れて山河あり 城春にして草木深し」を引用したものです。

これは「戦乱などで国は滅びても、山や河は昔の姿をとどめている」との意味で、人間が戦争を繰り返す無意味さを表現していて、芭蕉は平泉の栄枯盛衰の感慨をこれに重ね合わせています。

そして、平泉の章は文学としての完成度が高く評価され、有名な芭蕉が詠んだ2句と曾良の1句も無常観を見事に表現している俳句として高く評価されています。

平泉 高館 義経堂の源義経像 岩手県観光ポータルサイトより

とくに、義経が自刃した高館(たかだち)で、哀れさに涙を流す様子は奥の細道のクライマックスとされ、ここまで義経に関わる名所を訪れ描写してきたのはその布石だったと言われています。

芭蕉は高館のほかに、金鶏山、中尊寺(金色堂)、藤原秀衡(ふじわらひでひら)の館跡、和泉が城、衣の関、衣川なども訪れました。


夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡(芭蕉)

「奥州藤原氏や義経主従の功名も、今ははかない夢と消え最期の地には夏草が繁っているのみだ」との意味のこの句は、奥の細道の中でもよく知られている句の一つです。

平泉 高館 義経堂 岩手県観光ポータルサイトより

藤原氏三代の約100年間の「夢の跡」として残る平泉を訪れ、義経主従の最期の地を目の当たりにして、芭蕉が感じた無常のはかなさが込められています。

卯の花に 兼房(かねふさ)みゆる 白髪かな(曾良)

「白く揺れている卯の花を見ていると、義経と供に最期を遂げた家臣の兼房の白髪のように思える」との意味で、この地で終焉を迎えた義経主従への思いを淡い卯の花に重ね合わせています。

ただ、義経を守るために壮絶な最期を遂げたとされる家臣の十郎権頭兼房(じゅうろうごんのかみかねふさ)については実在しない架空の人物とされ、この句自体も曾良が詠んだ確証はないようです。

高館義経堂<Information>

  • 施設名:高館義経堂
  • 所在地:岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所14(毛越寺の飛び地境内)
  • 電話番号:0191-46-3300
  • 拝観時間:8:30~16:30(11月5日~11月20日 16:00まで
  • 休館期間:11月21日~3月14日(冬期間)
  • URL:高舘義経堂 公式サイト

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【中尊寺金色堂】昔と変わらぬ姿の光堂に

中尊寺金色堂 中尊寺 公式サイトより

芭蕉は中尊寺では経堂(大長寿院)と光堂(金色堂)を訪れたとして本文中に感想を書いていますが、実際には金色堂のみを見ることができたと曾良の旅日記に記されています。

金色堂 須弥壇 中尊寺公式サイトより

金箔が貼られ光輝く金色堂の孔雀のあしらわれた須弥壇(しゅみだん)には藤原三代(清衡・基衡・秀衡)の遺体と、最後の当主となった泰衡の首級が納められていて、1951年に国宝に指定されました。

現在では鉄筋コンクリート造りの頑丈な覆堂(ふくどう、おおいどう)の内側にあり、さらにガラスケースに覆われていて外気と遮断されています。

五月雨の 降りのこしてや 光堂(芭蕉)

「全てを洗い流すかの五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているかのようだ」との意味です。

鎌倉時代には金色堂を保護するために外側を包む覆堂が造られていて、芭蕉もその覆堂によって「千年ほどはその姿を保つことができるだろう」として、その感慨を句に残しました。

中尊寺<Information>

  • 施設名:中尊寺
  • 所在地:岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関
  • 電話番号:0191-46-2211
  • 拝観時間:8:30~17:00
  • URL:中尊寺 公式サイト

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奥の寄り道④】河合曾良とはどんな人物?

河合曾良像

河合曾良は本名を岩波庄右衛門(通称は河合惣五郎)といい、1649年に現在の長野県諏訪市で生まれますが幼くして両親や養父母を亡くし、伊勢長嶋のお寺に引き取られて育ちました。

江戸に出て吉川神道を学んでいたことから神道家として知識が深く、性格は温厚で芭蕉の門下となってからは芭蕉に尽くし、蕉門十哲の一人として奥の細道の旅に同行します。

芭蕉との旅では、旅費の計算や宿の手配など一手に引き受ける有能な秘書だったようです。

彼が詠んだとして残されている句は、奥の細道に掲載されたものも含め130句程残されていて、晩年は幕府の巡見使随員として壱岐島で病没しました。


まとめ

奥の細道では平泉の章に対して「変わりゆくものと変わらないもの」への芭蕉の心象風景が表わされているとして、高く評価されています。

敬愛する西行法師が2度も訪れるほど愛した平泉を自らの眼で見ることが、芭蕉の最大の目的だったとされ、彼はその心象風景を「旅の終点」として描ききったと言うことなのかもしれません。

平泉を訪れた芭蕉は、日本三景の「松島」と並ぶ景勝地、秋田県の象潟(きさかた)を目指し、再び宮城県を経由して山形県に向かいます。


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