【連載⑦:前九年の役・後三年の役】源氏と東国武者の絆、奥州藤原氏100年の栄華の始まり

源義家(みなもとのよしいえ)の軍中には、兄の苦境を救おうと京から弟の源義光(みなもとのよしみつ)が加わりました。

連合軍は当時難攻不落とされた金沢柵(かねざわのさく)を攻めますが、難攻不落とされる柵をなかなか落とせず、兵糧攻めにします。

この兵糧攻めによって柵内の兵糧が尽き、家衛・武衛連合郡は柵に火を放って逃げますが家衛も武衛も取らえられて斬首され、後三年の役は義家・清衡連合軍が勝利します。


前九年の役・後三年の役(ぜんくねんのえき・ごさんねんのえき)とは?

後三年合戦絵巻 東京国立博物館所蔵 出展:Wikipedia

平安時代末期の1051年(永承6年)~1062年(康平5年)と1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)にかけて、東北(岩手県および秋田県)で戦われた2つの戦役です。

前九年の役は、陸奥(むつ:岩手県)で勢力を伸ばす安倍(あべ)氏の反乱を、朝廷から派遣された源氏が清原(きよはら)氏の助力によって平定した戦役です。

そして、その後に陸奥から出羽(でわ:秋田県)にかけて支配を強めていた清原氏に内紛が起こり、そこからの家督争いが戦いに発展したのが後三年の役で、ここにも源氏が深くかかわります。

この2つの戦役によって岩手県平泉に奥州藤原氏が興り、源氏と東国武士との絆が深まり源頼朝(みなもとのよりとも)の鎌倉幕府につながっていきます。


金沢柵(かねざわのさく)で投降者を殺した理由とは?

後三年合戦絵詞 金沢柵鳥観図 出展:横手市公式サイト

金沢柵に対して兵糧攻めを提案したのは、この連合軍に加わっていた吉彦秀武(よしひこのひでたけ)でした。

吉彦秀武は、清原真衛(きよはらのさねひら)の養子、成衛(なりひら)の婚儀の祝いに訪問して真衛に待たされて怒り、祝いの砂金をぶちまけて後三年の役の発端となった清衡の叔父にあたります。

義家は投降した非戦闘員を保護しますが、吉武秀武の「兵糧攻めの効果を高めるに投稿者を出さないようにすべき」との主張に同意し、全て殺害して投降する者が出ないよう見せしめにしたのでした。


源氏三兄弟は、清原氏と同様に兄弟仲が悪かったの?

日本花圖繪 「源義家」 ウォルターズ美術館所蔵 出展:Wikipedia

源義家には義綱(よしつな)、義光(よしみつ)という父母が同じ弟がいました。

後三年の役の後には、それぞれの息子などを巻き込んで骨肉の争いを繰り広げたことから、清原3兄弟に負けず劣らず兄弟仲は悪かったとみられています。

また、義家は朝廷内での出世争いで義綱に遅れをとっていましたが、その子の義国(よしくに)は東国に根付き、足利氏・新田氏・里見氏などの祖となりました。

なお、義家が岩清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で元服したことで八幡太郎(はちまんたろう)という通称で呼ばれているように、義綱と義光にも通称があります。

賀茂次郎義綱(かもじろうよしつな)

頼義の次男で、京の加茂神社で元服したためこの通称で呼ばれ、朝廷に重んじられて一時は棟梁の義家を上回る勢いがあったと言われています。

また1094年(寛治8年)、出羽の平氏の反乱では陸奥守として鎮圧にあたっています。

前九年の役では兄義家と父頼義に従いましたが、義家とは郎党の揉め事から合戦しそうになるなど不仲で、義家の跡を継いだ義忠(よしただ)の暗殺犯として息子の義明(よしあき)が誅されましたが、そのことに憤慨した義綱は、息子5人とともに朝廷を出奔して近江の甲賀山に立て籠もります。

しかし、息子全員が自害すると降伏して出家し佐渡に流され、その後許されて京に戻っています。

新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)

源義光像 集古十種 摂津国寿命寺所蔵 出展:Wikipedia 

三男の義光は近江の新羅明神(しんらみょうじん)で元服して新羅三郎(しんらさぶろう)となり、弓馬や笙(しょう)などの演奏にも長けていたとされ、文武両道の武将であったとされています。

後三年の役では兄義家の苦戦を知り、朝廷に東下して援軍に向かいたいと申し出たが許されなかったため、無断で陸奥に向かい官職を剥奪されました。

常陸(ひたち:茨城県)の豪族の娘を妻として勢力に取り込み佐竹氏の祖となり、甲斐(かい:山梨県)の守として甲斐源氏(武田氏など)の初代当主となった他、小笠原氏や南部氏の祖でもあります。

義光は義家や義綱のように中央とのパイプが無く、東国で自分の勢力を伸ばそうと考えていたのではないかとみられています。


なぜ源氏と東国武士の絆が深まったのか?

源義家 「後三年合戦絵詞」 飛騨守惟久画 出典:Wikipedia

都に戻った義家は、「陸奥守として奥羽の乱を平定した」と報告したが、朝廷は「この戦いは清原氏の内紛であり、義家が勝手に介入した私戦」として、恩賞を出すどころか陸奥守を解任しました。

さらに役で滞った税の支払いを義家に命じるなど、義家は困窮します。

しかし、義家は後三年の役にあたって坂東など東国の武士を動員しており、彼らに恩賞を与えねばならないため、苦しい中からポケットマネーで恩賞を出したのでした。

この事を知った東国の武士たちは、義家の行為に感激してその恩義を心に刻み、源氏に忠誠を誓ったとされ、この精神が受け継がれて、やがて鎌倉幕府の御家人制度につながって行くことになります。


清衡から始まった奥州藤原氏

藤原清衡 「三衡画像」より 毛越寺所蔵/藤原清衡像 Wikipedia

後三年の役後に出羽と陸奥に勢力を伸ばした藤原清衡は、奥羽の統治者として朝廷にアピールをしながら中国大陸の宋などとの貿易を行い、中央での源平の争いを尻目に独立国のようでした。

清衡はさらに、居館を奥六郡にある平泉(ひらいずみ:岩手県)に移して中尊寺金色堂の造営を行うなど、仏教文化を中心とする壮大な理想郷を造り上げます。

毛越寺曲水の宴 出展:岩手県観光ポータルサイト

そして、清原氏との縁が切れたとして実父・藤原経清(ふじわらのつねきよ)の藤原性に戻し、「藤原清衡(ふじわらのきよひら)」を名乗り、奥州藤原氏四代100年の礎を築いたのでした。


まとめ

前九年と後三年の2つの役によって東国武士との絆を深めた源氏でしたが、朝廷は源氏の力が強大になることを恐れ、源氏の仲間割れを誘って力を削ぎ平氏を重用するようになります。

このことで源氏の力は弱まりますが、その代わり今度は平氏の勢力が増大してしまうのでした。

しかしながら、源氏が東国に撒いた種は次第に芽を伸ばし、やがて鎌倉幕府として開花します(完)。


連載:前九年の役・後三年の役


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