【連載②:前九年の役・後三年の役】前九年の役は休戦から再び戦いへ、苦戦する国府軍
目次
奥六郡(おくろくぐん:岩手県)の首長、安倍頼良(あべのよりよし)は、討伐の兵を挙げた陸奥守(むつのかみ)・藤原登任(ふじわらのなりとう)を、鬼切部(おにきりべ)の戦いで敗走させました。
しかし、藤原登任は敗戦の責によって更迭され、京からは武名の誉れ高い河内源氏(かわちげんじ)の源頼義(みなもとのよりよし)が新たな国司として赴任します。
安倍頼良は適わないと考えたのか頼義に服従し、それは自分の諱(いみな)が「よりよし」と同じである事に遠慮して、頼時(よりとき)と改名するほど徹底していました。
前九年の役・後三年の役(ぜんくねんのえき・ごさんねんのえき)とは?
平安時代末期の1051年(永承6年)~1062年(康平5年)と1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)にかけて、東北(岩手県および秋田県)で戦われた2つの戦役です。
前九年の役は、陸奥(むつ:岩手県)で勢力を伸ばす安倍(あべ)氏の反乱を、朝廷から派遣された源氏が清原(きよはら)氏の助力によって平定した戦役です。
そして、その後に陸奥から出羽(でわ:秋田県)にかけて支配を強めていた清原氏に内紛が起こり、そこからの家督争いが戦いに発展したのが後三年の役で、ここにも源氏が深くかかわります。
この2つの戦役によって岩手県平泉に奥州藤原氏が興り、源氏と東国武士との絆が深まり源頼朝(みなもとのよりとも)の鎌倉幕府につながっていきます。
「阿久利川事件(あくとがわじけん)」で生じた休戦協定の破綻
頼時が頼義に恭順を示した1562年以降、頼時はその姿勢を保ち続け奥羽は平穏でした。
しかし、頼義の任期が終わりに近づいたころ、前9年の役の休戦が破られる事件が起こったのです。
頼義が胆沢城(いさわじょう:岩手県奥州市)から国府のある多賀城(たがじょう:宮城県多賀城市)に戻る途中、阿久利川河畔で野営をしていた頼義のもとに密使がやって来ます。
密使が頼義に告げた内容とは?
それは、頼義の部下である藤原光貞(みつさだ)、元貞(もとさだ)の営所が夜襲を受け、人馬に損害が出たというもので、頼義は光貞を呼び出して心当たりを尋ねました。
すると光貞は、「安倍頼時の嫡男である貞任(さだとう)が光貞の妹を妻にしたいと願ったが、いやしい俘囚(ふしゅう)に妹はやらぬ」と拒んだため、それを恨んでの襲撃だと申し立てたのでした。
ちなみに「俘囚」とは朝廷に従うようになった蝦夷(えみし)を指した呼称です。
頼義はなぜか事実確認をせずに頼時に貞任を引き渡すよう要求します。
しかし頼時はそれを拒み、衣川(ころもがわ:岩手県奥州市)の柵を閉じ、それまで恭順していた頼義に対して挙兵して、再び前九年の役が始まることになるのでした。
頼義の戦力を削いだ寝返り
国府軍には、頼時の娘婿でもある平永衛(たいらのながひら)と藤原経清(ふじわらのつねきよ)が参加していました。
平永衛はキラキラ輝く銀の兜を愛用していましたが、その事を頼義に「敵に通じていて自分の位置を知らせるため」と告げ口した者があり、頼義はそれを受けて永衛を誅殺します。
永衛は前の陸奥守だった藤原登任を裏切り安倍軍についた前科があり、再び安倍軍に走る可能性が高いと判断されたのでしょう。
すると、同じく頼時の娘を嫁にしていた藤原経清は自分も同じ運命をたどると考え、頼義に多賀城が狙われているとの偽情報を流して頼義がそちらに向かう間に、安倍軍に寝返ってしまいます。
このため頼義は現地に詳しく有力な配下を失い、国府軍の戦力も低下することになりました。
奥州藤原氏の祖、藤原経清
藤原経清は鬼切部の戦いでは安倍氏側の武将でしたが、頼時の帰順とともに降り頼義の配下でしたが、阿久利川事件後に再び安倍氏側につき、頼義の率いる国府軍が苦戦する一因となります。
かつて平将門(たいらのまさかど)を討った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫であり、後の奥州藤原氏の祖でもある経清は、領地の亘理(わたり:宮城県亘理郡)で財力を蓄えていました。
なお、1993年のNHK大河ドラマ「炎立つ(ほむらたつ)」は藤原経清を描いたもので、その原作は高橋克彦氏の同名の名作小説です。
阿久利川事件にまつわる陰謀とは?
陸奥守として頼義が赴任してからここまで、頼時は恭順の姿勢を変えることはなく、事件が起こる直前にも頼義を饗応していたとする記録も残っています。
その頼時が、間もなく都に帰る頼義と敵対する理由はないとされ、この事件については陰謀によるものだとする説があります。
源頼義による陰謀説
赴任後の頼義はおそらく、陸奥や出羽など東北各地を巡ってその豊かさを実感したものと思われます。
当時の陸奥各地に金鉱脈が数多く発見されていたこと、軍事には欠かせない良馬の産地であること、広く肥沃な平野が多く、穀物などの収穫による多額の税収が期待できることなどを実感したことでしょう。
このまま頼時を討てずに都に戻っても、得られるものはわずかな恩賞と栄誉だけかもしれませんが、頼義がこの地を支配することで得られる富は計り知れないものがありました。
当時、中央では平氏(平家)が台頭して西国に勢力を拡げつつあり、源氏がそれに対抗するためには東国の富が必要とされていたと言われています。
河内源氏の棟梁である頼義が任期切れを間近にして夜襲を捏造して、頼時を挑発して戦乱を起こし、安倍氏を倒して領地を我が物にしようとしたとしても何ら不思議はありません。
前九年の役阿久利川古戦場跡<Information>
- 史跡名:前九年の役阿久利川古戦場跡
- 所在地:宮城県栗原市志波姫八樟里
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源頼義が陸奥守に再任され、再び戦役へ
頼義の後任として陸奥守となる予定だった公家の藤原良綱(ふじわらのよしつな)は、戦地への赴任を恐れて拒否したとされ、頼義がそのまま再任されることになりました。
頼時は衣川の柵(ころもがわのさく:岩手県)を閉ざし、再び戦乱となった陸奥での国府軍と安倍軍との戦いは双方が決め手を欠き、一進一退の攻防が繰り広げられます。
まとめ
戦役を伝える「陸奥戦記」によると、貞任の差出しを拒んだ頼時が、「人倫の世にあるは皆妻子のためなり、貞任愚かなりといえども、父子の愛は棄て忘るることあたわず」と一族に語ったそうです。
しかし、これは源氏による安倍氏追討を正当化するための虚構とする説があり、さらにはこの阿久利川事件そのものが無かったのではないかとも言われています。
こうして再び強い安倍軍と相まみえることとなった頼義は、膠着する戦況を打開するため、ある策を講じるのでした(前九年の役・後三年の役③へ続く)。