【連載③:前九年の役・後三年の役】無類の強さを誇る安倍軍、窮地に追い込まれる源頼義
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1056年(天喜4年)2月の阿久利川(あくとがわ)事件以降、再び戦闘状態となった源頼義(みなもとのよりよし)と安倍頼時(あべのよりとき)でしたが、一進一退の戦況が続きます。
そこで頼義は陸奥(むつ)奥六郡(おくろくぐん:岩手県)の北、今の青森県の蝦夷(えみし)安倍富忠(あべのとみただ)を味方に引き入れて安倍軍を挟撃しようとします。
富忠を説得しようとした頼時はその途中で攻撃を受けて亡くなりますが、後継ぎの貞任(さだとう)率いる安倍軍はさらに強くなり、頼義は次第に追い込まれて行くのでした。
前九年の役・後三年の役(ぜんくねんのえき・ごさんねんのえき)とは?
平安時代末期の1051年(永承6年)~1062年(康平5年)と1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)にかけて、東北(岩手県および秋田県)で戦われた2つの戦役です。
前九年の役は、陸奥(むつ:岩手県)で勢力を伸ばす安倍(あべ)氏の反乱を、朝廷から派遣された源氏が清原(きよはら)氏の助力によって平定した戦役です。
そして、その後に陸奥から出羽(でわ:秋田県)にかけて支配を強めていた清原氏に内紛が起こり、そこからの家督争いが戦いに発展したのが後三年の役で、ここにも源氏が深くかかわります。
この2つの戦役によって岩手県平泉に奥州藤原氏が興り、源氏と東国武士との絆が深まり源頼朝(みなもとのよりとも)の鎌倉幕府につながっていきます。
安倍富忠が味方につき、頼時が戦死
頼義は、奥六郡の北の大勢力の俘囚(ふしゅう:国府側に従う蝦夷)である富忠を調略して、味方につけて南北から頼時を挟撃しようと考え、富忠を味方に引き入れることに成功しました。
このことを知った頼時は、富忠を説得するため北へ向かいますが、その途中で富忠に襲撃され深手を負ってしまい、1057年7月に鳥海(とのみ)の柵(岩手県金ケ崎町)で亡くなります。
しかし、この頼時の死によって安倍氏の一族郎党の団結が強まり、後を継いだ貞任と宗任(むねとう)を盛り立てて戦い、前九年の役は長期戦になります。
鳥海ノ柵跡<Information>
- 施設名称:鳥海ノ柵跡
- 所在地:岩手県一関市大東町鳥海
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安倍貞任追討の命を受けた源頼義が大敗を喫す
1057年9月、朝廷から安倍貞任追討令が下され、頼義は11月に国府の兵2,500(または2,000)で奥六郡に進撃し、安倍軍4,000と黄海(きのみ:岩手県一関市藤沢町)で戦います。
国府軍は兵糧の準備が不十分でさらに寒さのために兵が疲れ果てていたとされ、地の利を活かして迎え撃つ安倍軍に大敗してしまうのでした。
頼義が安倍軍より少ない軍勢で出陣したのは北の富忠勢をあてにしていたと思われますが、富忠勢が到着する時期を見誤ったか、あるいは功を焦った可能性などが後世で指摘されています。
頼義は数百の兵と古参の家臣を多く討たれて潰走し、頼義も討ち死に寸前まで追い込まれるものの、嫡男の源義家(みなもとのよしいえ)の活躍で命からがら帰還します。
この戦いで頼義は戦力を大きく削がれ、安倍氏は奥六郡の南の地域も実効支配することになりました。
八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)、獅子奮迅の活躍!
頼義の嫡男(ちゃくなん)義家は、山城(やましろ:京都)の岩清水八幡宮で元服したことで「八幡太郎」とも呼ばれ、その武勇は「源氏最強」であったとも後世に伝えられています。
ちなみに頼義は、岩清水八幡宮を河内(かわち)に勧請(かんじょう)して壷井八幡宮を創建し、さらに東国の拠点として鎌倉にも勧請して鶴岡八幡宮を創建し、これが後の鎌倉幕府の礎となりました。
国府軍総崩れとなった黄海の戦いでは父頼義を守るために獅子奮迅の奮闘を見せたとされ、「騎射すれば当たらぬ矢がない」とされるほど、その弓は正確で強力であったと言われています。
八面六臂の大活躍ぶりは、「神のごとし」であったと「陸奥話紀(むつわき)」に記されています。
壷井八幡宮<Information>
- 施設名称:壷井八幡宮(河内源氏の氏神)
- 所在地:大阪府羽曳野市壺井605-2
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栄える安倍氏と憂いの源氏
大敗で兵力を大きく減らした頼義軍はその回復に時間がかかり、逆に勢いを得た安倍氏はこれまで国府に納税していた地域に藤原経清を派遣して税を徴収させるほどでした。
頼義は国府の周辺だけでは兵が集まらず、関東や東海地方にまで声をかけて兵力の増強を図らなくてはならないほどの窮状に追い込まれてしまいます。
そのうち頼義の陸奥守の任期が切れ、代わりに高階経重(たかしなのつねしげ)が都から着任しますが都から来た公家(くげ)に従う者は無く、経重は解任されて頼義がまたも陸奥守となりました。
豊田館跡<Information>
- 施設名称:豊田館跡(藤原経清館跡、藤原清衡生誕の地)
- 所在地:岩手県奥州市江刺岩谷堂下苗代沢023−1101
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前九年の役の流れを変える清原氏の参戦
30年ほど昔、父の源頼信(みなもとのよりのぶ)が「平忠常(たいらのただつね)の乱」を平定して得た、東国での源氏の権威失墜を恐れた頼義は、様子見している俘囚を味方に取り込もうとします。
その頼義が白羽の矢を立てたのは、安倍氏に優るとも劣らない勢力を拡げていた出羽の清原氏でした。
頼義は清原光頼(きよはらのみつより)に贈り物や、臣下となるかのような礼をつくしてまで参戦を依頼して、清原氏の説得に成功します。
まとめ
安倍氏の強さに討ち死に寸前まで追い込まれた源頼義でしたが、嫡男の義家が華々しく武人デビューを飾り、任期が切れた陸奥守に再任されたことで自らの手勢と国府軍の再起を図ります。
そして、味方につけた清原勢1万とともに、安倍氏に決戦を挑むのでした(前九年の役・後三年の役④へ続く)。