【連載⑤:前九年の役・後三年の役】前九年の役から20年、奥羽に再び拡がる戦乱の予兆

前九年の役の後、源頼義(みなもとのよりよし)は京に戻り、安倍氏が支配していた陸奥の奥六郡(岩手県内陸部)は清原氏が統治することになりました。

清原氏は、長い戦いの最後にちょっと参戦しただけで、それ以前の出羽(秋田県)三郡と併せた広大な領地を獲得することになったのです。

当時の東北地方は砂金などの金脈が多く発見され、良馬の産地でもある豊かな土地だったことから清原氏は次第に大きな力を得ますが、きちんと税を納めるなど朝廷との関係は良好でした。

清原氏の家督は光頼(みつより)から、弟で前九年の役の総大将・武則(たけのり)に移り、その子の武貞(たけさだ)が当主となります。

そして、武貞の死後に跡を継いだ真衛(さねひら)の時代に、清原一族内で騒動が起こり、後三年の役へとつながっていくのでした。


前九年の役・後三年の役(ぜんくねんのえき・ごさんねんのえき)とは?

源義家 「後三年合戦絵詞」 飛騨守惟久画 出典:Wikipedia

平安時代末期の1051年(永承6年)~1062年(康平5年)と1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)にかけて、東北(岩手県および秋田県)で戦われた2つの戦役です。

前九年の役は、陸奥(むつ:岩手県)で勢力を伸ばす安倍(あべ)氏の反乱を、朝廷から派遣された源氏が清原(きよはら)氏の助力によって平定した戦いです。

そして、その後に陸奥から出羽(でわ:秋田県)にかけて支配を強めていた清原氏に内紛が起こり、そこからの家督争いが戦いに発展したのが後三年の役で、ここにも源氏が深くかかわります。

この2つの戦役によって岩手県平泉に奥州藤原氏が興り、源氏と東国武士との絆が深まり源頼朝(みなもとのよりとも)の鎌倉幕府につながっていきます。


源頼義たちに下された前九年の役の恩賞は?

前九年合戦絵巻 東京博物館所蔵 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム 

都に戻った頼義には「正四位下伊予守」という官位が下されます。

伊予(いよ:愛媛県)は温暖で実り多く豊かな国で、当時としては最高の恩賞でしたが頼義の郎党には恩賞がなく、頼義は2年ほど伊予に赴任せず朝廷に要請し続けたそうです。

清原武則(きよはらのたけのり)は、それまでの従五位下から従五位上としたうえで鎮守府将軍を任じられ、出羽の領地に加えて奥六郡が与えられました。

清原氏による奥六郡の統治

武則は出羽から陸奥へと拠点を移し、安倍貞任(あべのさだとう)の娘を武貞の妻とします。

この貞任の娘は、安倍勢の有力な武将だった藤原経清(ふじわらのつねきよ)の妻で、経清の息子を連れての再婚でしたが、これは安倍氏の旧臣たちを懐柔するための政略結婚とされています。

ただ、この政略結婚が遠因となって、一族に内紛をもたらすことになるのでした。


清原三兄弟の血縁と武貞死後の確執

清原氏系図 出展:横手市公式サイト

武貞の後継ぎは真衛でしたが、彼には複雑な血縁の2人の弟がおりました。

一人は、武貞が妻として迎えた安倍貞任の娘で藤原経清の妻だった女性との間に生まれた家衛(いえひら)で、もう一人はその女性の連れ子で藤原経清の子の清衡(きよひら)です。

真衛と家衛は同父異母兄弟、家衛と清衡は異父同母兄弟、真衛と清衡は血のつながり無しという複雑な関係のなか、清原家の棟梁として権威を振りかざす真衛に、弟二人は不満を持っていたとされています。

後三年の役の発端はつまらない同族争いからだった

真衡館の焼討 出展:横手市公式サイト

実子のない真衛は、平氏(平家)出身の成衛(なりひら)を養子に迎えて跡継ぎとしていて、そのことで一族の吉彦秀武(よしひこのひでたけ)などの長老とは折り合いが悪くなっていました。

成衛が源頼義(みなもとのよりよし)の娘と結婚することになり、義理の叔父にあたる秀武は祝いの品を持って真衛の屋敷にやってきます。

この頼義の娘については、頼義の息子である義家(よしいえ)の娘とする説もありますが、いずれにせよ平氏と源氏の血を濃くする事で、清原家の家格を高めようとしていたのかもしれません。

しかし、真衛は秀武を待たせたまま囲碁に夢中だったため、待たされ続けて癇癪を起した秀武は祝いとして持参した砂金を庭にぶちまけて出羽の屋敷に帰ってしまうのでした。

このことを無礼とした真衛は秀武を攻める兵を起こすのですが、このつまらない身内争いが、やがて後三年の役に発展して行きます。

嫡流の真衛VS庶流の2人の弟

これまで同族が連帯してきた清原氏を、真衛は源平のように棟梁を中心とする武士団に変えようとしたためか尊大な振る舞いが目立ち、それを2人の弟や秀武など長老たちは苦々しく感じていました。

その秀武は真衛の後継には養子ではなく、武貞の血を引く家衛に継がせようとしていたともされ、真衛は秀武を排除する機会を狙っていたのかもしれません。

兵を挙げた真衛勢が8,000であるのに対して秀武は6,000と分が悪く、そのため秀武は真衛とは日ごろから仲が悪い家衛と清衛を誘い、真衛の館を襲わせます。

しかし、それを察知した真衛が出羽から軍勢を返したため、2人は兵を引きました。


清原一族の争いに八幡太郎が介入

八幡太郎義家 「芳年武者無類」 月岡芳年作 出展:Wikipedia

その翌年の1083年、真衛が秀武を討つ準備を進めていたところに、源義家が陸奥守(むつのかみ)となって着任し、真衛は義家をもてなして助力を要請したうえで出羽に攻め入りました。

すると家衛と清衛は再び真衛の館を攻めますが、万全の備えを敷いていた真衛の留守部隊が奮戦したうえに、義家が国府軍を率いて援軍として赴いたため、家衛・清衛連合軍はまたも退きます。

これを受けた真衛は出羽に軍を進めますが、その途中で病のため急死してしまうのでした。

このことで、清原家の内輪もめはひとまず収束に向かいます。


まとめ

清原氏の棟梁である真衛が死んだ後、その後継者争いは源義家が仲介役となって表面的には収まりを見せ、出羽と陸奥における義家の影響力はますます大きくなります。

ただ、義家が領土を2人に公平に分配したため、清原氏の血を引く家衛は自分と養子の清衛が同じ扱いであることに不満をつのらせ、やがて爆発させてしまうのでした(前九年の役・後三年の役⑥へ続く)。


連載:前九年の役・後三年の役


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