【秋田県秋田市】秋田市の歴史-佐竹氏が転封以前の秋田市エリアは、北方勢力との最前線だった
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秋田市の歴史は、1602年(慶長7年)に始まったと秋田市のホームページに書かれています。1602年は、江戸時代になってそれまで常陸国(茨城県)の大名だった佐竹義宣(さたけよしのぶ)が、将軍徳川家康から秋田の地に国替え(転封/てんぽう)を命じられ、秋田にやってきた年になります。義宣は秋田に来てすぐに久保田城を築き、城下町を整備しました。それが今の秋田市の中心街として発展したのです。
それでは、義宣が転封される前の秋田市エリアはどうなっていたのでしょう。
北方民族(蝦夷)との戦いで前線基地となった古代秋田城
あきた(あぎた)という名前がはじめて出てくるのが奈良時代の歴史書『日本書紀』(720年完成とされている)です。その頃は東北地方を支配地域にしたい大和朝廷が、先住民族だった蝦夷(えみし)の生活域に侵入していた時代です。朝廷は奈良から軍隊を派遣し、蝦夷の人たちをどんどん北に追いやって朝廷の領地を広げていきました。飛鳥時代の600年代中期には阿倍比羅夫(あべのひらふ)が水軍を率いて東北遠征をしたとの記録があります。
700年より前に、蝦夷征伐において日本海側の最前線が山形県の最上川下流に置かれます。出羽柵(いではのき/でわのさく)といわれる砦(城柵/じょうさく)が造られたのです。その後征伐軍は100km以上北進し、733年に出羽柵は秋田の高清水(秋田市寺内高清水公園)に移されました。この城柵が760年頃には秋田城(古代秋田城)と呼ばれるようになったのです。
「秋田城」は朝廷の行政機関として海外との交易も担当
秋田城は最も北の城柵でした。城柵の役割としては北の勢力(蝦夷)からの防衛はもちろんのこと、地域の行政機関、それに交易や外交の役割を持っていたと考えられています。秋田城の責任者には秋田城介(あきたじょうのすけ)という高い地位の官職が与えられていました。
特に唐(618年~907年)が中国大陸を支配していた時代、その北東部には渤海(ぼっかい/698年~926年)という小国がありました。渤海は、8世紀頃に34回もの使節団を日本に派遣したという記録が残っています。しかし、どこの港に寄港していたか、どこで交易を行っていたのかは解明できていませんでした。位置的には東北か北海道あたりの港だろうとは想像されていましたが、秋田城での発掘調査の結果、それが土崎湊(秋田市土崎港)であり、交易の中心は秋田城だったことが分かってきたのです。
秋田城から見つかった水洗トイレ。流された汚物の中に世紀の発見が
秋田城は、1972年(昭和47年)から100回以上にわたる発掘調査が行われています。その中で1994年(平成6年)~1995年(平成7年)の第63次発掘調査では、日本ではその時代にはみたこともない水洗トイレらしき遺構が見つかりました。さらにトイレから流されたとおぼしき汚物の中に、当時日本では食べられていなかった豚につく寄生虫の卵が見つかったのです。
水洗トイレは、周辺に迎賓館や寺院が建つ一角にあり、建物が都にもない立派なものだったことから、大変重要な人物が使用していたものと推定されています。たまっていた汚物からは日本にはいないはずの寄生虫の卵が発見されたところから、秋田城には外国からの使節、特に豚を食していた渤海からの使者が来訪していたと考えられるようになりました。
秋田城跡史跡公園では秋田城の遺構発掘・復元が進行中
秋田城は失われてしまいましたが、発掘調査の結果、水洗トイレのほかにも多くの成果を上げています。2016年(平成28年)には秋田市立秋田城跡歴史資料館がオープンし、発掘資料が一般公開され、秋田城の遺構などが秋田城跡史跡公園に復元されました。
徐々にその規模や建物の配置などが分かってきた政庁
秋田城は、周囲約2.2kmの城壁の中にさらに塀を造り、その中に政庁がありました。塀は南北約77m、東西約94mあり、正殿を中心に脇殿が左右対称に配置されていました。それぞれの建物の規模は大きく、平城京や平安京と同じ配置にして朝廷の威信を示したといわれています。
東西南北に門があり、復元されたのは東門
外側の城壁には東西南北の門が設けられていたと考えられていますが、北門はまだ発見されていません。復元されているのは東門と築地塀の一部です。
ほかにも水洗トイレが発掘されたエリアからは多くの建物跡が見つかりました。それらは寺院や客館(迎賓館)ではないかと考えられています。復元はもう少し先になりそうですが、その柱穴からみても都にもなかったような大変立派な建物だったようです。
発掘調査の資料と、秋田城全体の様子がわかる「秋田城跡歴史資料館」
秋田城跡歴史資料館は、今までに発掘された貴重な遺物や資料が展示され、秋田城の役割や建物の構造などがよく分かる資料館です。
展示資料は、城のあった場所を特定できた木簡(年代や名前が墨書きされたもの)や瓦、古文書、武器、土器などで、その用途別や年代順などに整理され、秋田城の歴史がよく分かるようになっています。また。秋田城の役割が映像化され紹介されています。
秋田城は今後も発掘調査と同時に復元作業が進められる予定になっています。最北地にあった城がどのようなものであったか、さらに解明されることが期待されています。
ちなみに、秋田城が古代城柵としての役割は、大和朝廷が東北地方を概ね掌握した平安時代末期頃(10世紀後半)には終えますが、朝廷の地方機関としての秋田城は室町時代まで続き、その後に廃止されてしまいました。
INFORMATON
- 施設名称:秋田市立秋田城跡歴史資料館
- 所在地:秋田県秋田市寺内焼山9-6
- 電話番号:018-845-1837
- 開館時間:9:00~16:30
- 休館日:年末年始(12月29日~1月3日)
- 入館料:一般 210円、高校生以下 無料
- 施設名称:秋田城跡史跡公園
- 年中無休
- 入園無料
- URL:秋田城跡歴史資料館
- アクセス:
- 鉄道/秋田新幹線・JR奥羽本線秋田駅から路線バスで約20分、秋田城跡歴史資料館前バス停下
- 車/秋田自動車道秋田北ICから約15分
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戦国時代は秋田氏が支配。江戸時代に佐竹氏と交代で常陸国へ転出
戦国時代になると各地に豪族が現れ拠点(城)を建て、勢力争いを繰り広げます。出羽地方から津軽地方には安東氏が勢力を強めており、戦国時代末期頃には、津軽(檜山安東氏)と出羽(湊安東氏)に分かれていた安東氏が統一され、土崎湊(秋田県土崎港)に湊城を建て本拠地としています。その際、安東氏は秋田城介を名乗り、秋田氏と改名しました。
秋田氏は、江戸時代になり幕府の命令により佐竹氏が秋田へ国替えになったと同じくして、もともと佐竹氏が治めていた常陸国へ移ることになりました。それから40数年後には再び国替えになり、三春(福島県三春町)に移り、その後は三春藩藩主として明治維新まで三春の地を治めています。
佐竹義宣が廃城にした湊城
秋田にやってきた佐竹義宣は、当初湊城を居城としました。しかし、常陸国で470年もの間統治し、豊臣秀吉から54万石を与えられた大名の佐竹氏にとって、5万石の小大名だった秋田氏の居城は、引き連れてきた大勢の家臣を住まわせるにはあまりに手狭でした。そのため、現在の千秋公園として親しまれている久保田の地に新たな城郭を築くことにしたのです。築城の工事は1603年に開始され1631年頃まで続いています。
久保田城が完成したのち、湊城は廃城となり、その跡地には土崎神明社が建てられました。
INFORMATON
- 施設名称:湊城跡/土崎神明社
- 所在地:秋田県秋田市土崎港中央3-9-37(秋田市土崎港駅前通り)
- 電話番号:018-845-1441
- URL:湊城跡/土崎神明社
- アクセス:
- 鉄道/JR奥羽本線土崎駅から駅徒歩で約4分
- 車/秋田自動車道秋田北ICから約15分</