【福島県南相馬市】800年間にわたり独自の文化を育んだ奥州相馬氏の足跡をたどる
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戦国大名相馬氏(そうまし)が、源頼朝より福島県北部の陸奥国行方郡(むつのくになめかたぐん)(南相馬市・飯舘村)を与えられてから800年余の年月が経ち、令和の時代になっても未だに相馬氏が創り上げた文化が色濃く残る福島県相馬地方。相馬氏の時代は廃藩置県により終わりを告げる明治時代まで約680年間続き、「相馬野馬追(そうまのまおい)」や「相馬盆唄」、「相馬流れ山」などの民俗文化を生み出しました。
源頼朝から奥州の地を拝領した板東武者の相馬氏
相馬氏の出身は永安時代末期に現在の千葉県と茨城県にまたがる下総国(しもうさのくに)を領地にしていた板東武者(ばんどうむしゃ)の千葉氏(ちばし)といわれています。領主千葉常胤(つねたね)の次男師常(もろつね)が、下総国北部(現茨城県取手市~千葉県柏市・流山市・我孫子市あたり)の相馬御厨(そうまみくりや)と呼ばれていた地域を相続し、相馬氏を名乗ったのがはじまりです。
相馬師常は、源頼朝が奥州藤原氏を滅亡させた戦い(奥州合戦/1189年)に参加し手柄を立て、その報償として行方郡を拝領しました。しばらくの間相馬氏は下総国(下総相馬氏)と奥州(奥州相馬氏)に領地を持っていて、奥州の領地には約130年間居城をおかず、下総国から管理していました。その後1323年になって、奥州相馬氏第6代当主相馬重胤(しげたね)は、家臣83騎(30騎あまりとの説あり)を引き連れて陸奥国行方郡に入り、奥州の地を直接統治するようになります。
奥州相馬氏最初の居城は「別所館」
相馬氏が最初に拝領した地、陸奥国行方郡は現在の南相馬市と飯舘村にあたり、重胤はまずは太田村(現南相馬市原町区)にあった「別所館(べっしょのたて)」を居城にしました。
「別所館」は、鎌倉幕府で重要な地位を得た三浦一族が居住していた館で、重胤が入城する際に明け渡したといわれています。現在建物などは残されていませんが、遺構が相馬太田神社境内にあります。
「相馬太田神社」は、奥州相馬氏の氏神様、妙見菩薩を祀る3つの神社のひとつで、現在では国の重要無形民俗文化財に指定されている勇壮な祭り「相馬野馬追」の出陣神社として知られています。
約280年間奥州相馬氏の居城だった「小高城」
重胤が「別所館」にいたのは3年ほどで、1326年に5kmほど離れた小高(現南相馬市小高区)の館に移り、1336年の改修で居城としての体裁を整えました。この「小高城」は1611年「中村城」に本拠を移すまで一時期間を除いて奥州相馬氏の居城でした。
「小高城」の建物等は残っておらず、遺構のみ相馬小高神社境内の小高い丘の上にあります。「相馬小高神社」も相馬妙見三神社のひとつになっていて、『相馬野馬追』の出陣神社です。
伊達政宗と戦い奪われた最北端地域
奥州相馬氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて大きく勢力を大きく伸ばしました。領地は行方郡のほか南に隣接する標葉郡(しねはぐん/現大熊町、浪江町、双葉町、葛尾村[かつらおむら])や北側の宇多郡(うだぐん/相馬市・新地町[しんちまち])へと広がりました。
ただ、宇多郡の最北端、現在の新地町ある地域は奥州相馬氏の北側で大きな勢力を持っていた伊達氏(だてし)との戦いの末奪われてしまいます。奥州相馬氏は、伊達氏の攻撃に対し、「新地城」や「駒ヶ峯城(こまがみねじょう)」といった砦を築いて抵抗しますが、伊達政宗(まさむね)率いる伊達氏の力には対抗できませんでした。1589年から明治時代になるまでこのエリアは伊達仙台藩の支配下にあったのです。
新地城跡には現在約40種3万本のチューリップが植えられ、春には多くの観光客で賑わっています。別名臥牛城(がぎゅうじょう)と呼ばれた駒ヶ嶺城の跡地には石碑が建てられていますが、遺構は全くありません。
領地没収の危機を宿敵伊達氏が救う
戦国時代から江戸時代に変わる激変期に、奥州相馬氏は豊臣側につき所領は守られましたが、第16代当主相馬義胤(よしたね)は、「小高城」より強固な城を建てることを決意します。1595年に「小高城」より3kmほど東の海沿い(南相馬市小高区)に「村上城」を建て始めますが火災により断念、すぐに、もともと奥州相馬氏が滅ぼした牛越氏の居城だった「牛越城(うしごえじょう)」を改修して1597年に小高城」から移ります。
その後すぐに関ヶ原の戦いが勃発。奥州相馬氏は中立的な立場にいたので、戦後徳川家康にそのことをとがめられ、一時は領地を没収されてしまいます。
奥州相馬氏にとって最大の危機だったこの事態を、なぜか宿敵伊達藩が家康にとりなしてくれたといわれ、復権に成功します。この事件もあり、義胤は「牛越城」は縁起が悪いと、居城をもとの「小高城」に移し、「牛越城」を廃城にしました。
相馬中村藩の本拠地となった「中村城」
危機を乗り越えた奥州相馬氏は、幕府より従来通りの行方郡、標葉郡、宇多郡(新地以外)を領地と6万石を与えられて、晴れて大名となりました。初代藩主は義胤の長男、相馬利胤(としたね)です。利胤は、1611年に中村(相馬市中村)に城を建て「小高城」から移り住み、以降奥州相馬氏は幕末まで約260年間この「中村城」で藩政を執り行いました。
奥州相馬藩の居城「中村城」は、別名「馬稜城(ばりょうじょう)」といわれ、実際の建物は残っていませんが、その遺構からかなり大きく堅固な造りになっていたことが分かります。
中村城跡は整備され「馬稜公園」として市民の憩いの公園に
「中村城」は現在「馬稜公園」として整備され、市民の憩いの場所として開放されています。特に桜や紅葉の名所として有名です。城跡内には相馬三大妙見神社のひとつ、「相馬中村神社」があり、『相馬野馬追』の時は、宇多郷(相馬市)の出陣式が行われます。