【福島県白河市】白河関とは?かつて関所が置かれた国境の町、白河

福島県白河市は、奈良時代頃までは、朝廷の力が及ばない蝦夷(えみし/現在の東北地方)と呼ばれる地方の入り口に位置し、国境(くにざかい)には関所(白河関/しらかわのせき)が設けられ、厳しく人の出入りが管理されていました。

国の史跡に指定されている「白河関跡」 ©ふくしまの旅
国の史跡に指定されている「白河関跡」 ©ふくしまの旅

※蝦夷(えみし)は、先住民族アイヌの人たちが居住していた蝦夷地(えぞち)とは違い、朝廷の力が及ばない未知の土地に住む人々、という意味で使われています。最近の研究では当時東北地方に居住していた人たちはアイヌ人ではなく、大和民族だったという説が多くなっているようです。


平安時代には役割を終えた「白河関」

朝廷が蝦夷を支配下に置こうとする動きは奈良時代以前からたびたび行われていたのですが、平安時代の初期、797年に蝦夷征伐の長、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)任じられた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によってほぼその目的が達成されました。その頃には「白河関」もその役割を終えています。


鎌倉時代に結城氏が白河を領地に

白河は、1198年の源頼朝による奥州征伐に参戦し、活躍した結城朝光(ゆうきともみつ)に与えられ、以降400年にわたって結城氏(白河結城氏)によって支配されています。結城氏の居城は、はじめは「白川城」でしたが、戦国時代に「小峰城(こみねじょう)」に移りました。

結城氏は1590年に豊臣秀吉が北条氏を滅亡させた戦い、小田原征伐に参加しなかったため、同年秀吉により役職剥奪、領地没収の罰(奥州仕置)を受け、白河を去ります。


松平定信も藩主を務めた白河藩

結城氏の後を受けたのが会津の領主蒲生秀行(がもうひでゆき)で、江戸時代に入ってからも白河は会津領のままでしたが、1627年に丹羽長重(にわながしげ)の領地となり白河藩が成立しました。長重は「小峰城」を居城として大改修を施し、城下を整備しています。

白河藩は藩主が次々に変わっていきます。丹羽家2代の後を継いだのは、榊原忠次(さかきばらただつぐ)で、その後本多忠義(ほんだただよし)、本多忠平(ただひら)と受け継がれ、1681年には松平忠弘(まつだいらただひろ)が白河入りしました。松平家は徳川家の直系で、以降1823年まで8代にわたり藩主となっています。

特に徳川幕府の老中となり寛政の改革(かんせいのかいかく)を行った松平定信(まつだいらさだのぶ)が1783年から1823年まで藩主を努めています。定信は白河関跡地を特定したり、今なお美しい景観で人気の「南湖(南湖公園)」を築造しています。松平家の後を継いだのは阿部家で、1867年から1869年の大政奉還(たいせいほうかん)までの2年ほどは幕府の預かり地になっています。


松平定信が特定した「白河関跡」

「白河関跡」にある白河神社参道 ©ふくしまの旅
「白河関跡」にある白河神社参道 ©ふくしまの旅

『白河関跡』は、栃木県の県境から約3kmの山間部にあります。関所としての役割を終えた後も「白河関」は、都に住む人々にとって、陸奥(みちのく)といわれ未知の世界だった奥州への入り口として憧れに近い存在だったらしく、詩歌の歌枕(よく詠われた名所)に登場しています。江戸時代の俳人松尾芭蕉も白河を訪れ、国境の関所に思いをはせ「心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ」と『おくのほそ道(奥の細道)』に記しています。

「白河関跡」にある芭蕉と従者曾良の像
「白河関跡」にある芭蕉と従者曾良の像

松平定信は、関所があったと伝わる場所を調べ、空堀(水のない堀)や土塁が残る場所を特定し「古跡蹟(こせきあと)」の碑を立てました。『白河関跡』には、「古関蹟碑」のほか、「白河神社」、鎌倉時代初期の歌人藤原家隆(ふじわらのいえたか)お手植えと伝わる樹齢800年の古木「従二位の杉」、入場無料の公園「白河関の森公園などがあります。『白河関跡』は国指定の史跡です。

藤原家隆お手植えと伝わる樹齢800年の古木「従二位の杉」 ©ふくしまの旅
藤原家隆お手植えと伝わる樹齢800年の古木「従二位の杉」 ©ふくしまの旅

白河関跡<Information>

  • 施設名称:白河関跡
  • 住所:福島県白河市旗宿関ノ森
  • 電話番号: 0248-22-1147(白河観光物産協会)
  • 施設名称:白河の森公園
  • 住所:福島県白河市旗宿白河内7-2
  • 電話番号:0248-32-2921
  • 開園時間:9:00~17:00(11月~3月は16時まで)
  • 休園日:第2水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
  • 入園料:無料
  • URL:行って!みっぺ!!白河 白河関

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初代白河領主結城氏の居城「白川城」

「白川城」は、白河を最初の所領とした結城朝光の孫、祐広(すけひろ)が1298年頃築城したと伝わる城で、JR白河駅から東へ3kmほどの藤沢山にある山城です。別名を“搦目城(からめじょう)”といいます。戦後時代の1500年初頭には「小峰城」を建て、本城としての役割を終えています。『白川城跡』には建造物は残されていませんが、堀や土塁、居館跡などがあります。国指定史跡です。

白川城跡<Information>

  • 施設名称:白川城跡
  • 住所:福島県白河市藤沢ほか
  • 電話番号:0248-27-2310(白河市文化財課)

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白河藩の居城となった「小峰城」

昔の資料を基に再現された小峰城三重櫓 ©ふくしまの旅
昔の資料を基に再現された小峰城三重櫓 ©ふくしまの旅

「小峰城」は、江戸時代白河藩の居城となった城です。1350年頃結城親朝(ちかとも)によって築城されたといわれています。江戸時代白河藩初代藩主丹羽長重が大改修しました。

日本古城絵図 奥州白川城図(江戸中期から末期・白川城となっているが小峰城のこと) 所蔵:国立国会図書館
日本古城絵図 奥州白川城図(江戸中期から末期・白川城となっているが小峰城のこと) 所蔵:国立国会図書館

「小峰城」は、明治維新後江戸幕府が新政府に対して最後の抵抗をみせた戊辰戦争(ぼしんせんそう/1868年~1869年)の際、新政府側に攻められ落城してしまいます。

戊辰戦争で落城し石垣だけになってしまった小峰城。1910年(明治43年) 所蔵:国立国会図書館
戊辰戦争で落城し石垣だけになってしまった小峰城。1910年(明治43年) 所蔵:国立国会図書館

『小峰城跡』には当時の建物は残っていません。当時の遺構は石垣や堀の一部だけですが、1991年(平成3年)以降に当時の資料を基に三重櫓や前御門が復元されています。『小峰城跡』は、国の史跡です。

小峰城跡<Information>

  • 施設名称:小峰城跡
  • 住所:福島県白河市郭内1
  • 電話番号: 0248-22-1147(白河観光物産協会)※三重櫓以外見学自由
  • 施設名称:三重櫓
  • 開館時間:
    • 4月~10月/9:30~17:00
    • 11月~3月/9:30~16:00
  • 入館料:無料
  • 休館日:年末年始
  • URL:みちのくの玄関 小峰城跡

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松平定信が築造した庶民のための公園「南湖」

誰でも入れるようにした日本初の公園「南湖」 ©ふくしまの旅
誰でも入れるようにした日本初の公園「南湖」 ©ふくしまの旅

「南湖(なんこ)」は、松平定信が1801年に築造した“公園”です。定信は“士民享楽”との理念で、もともと湿地帯だったところに池を造成し、庭園、散策路などを整備、境をなくして誰でも入れる公園を造ったのです。日本初の公園といわれ、園内の「共楽亭(きょうらくてい)」(白河市指定重要文化財)は身分に関係なく使えたという茶室です。

「南湖公園」内に1995年に完成した「翠楽苑」 ©ふくしまの旅
「南湖公園」内に1995年に完成した「翠楽苑」 ©ふくしまの旅

「南湖」は白河市によって市民公園『南湖公園』として整備され、園内にある「翠楽苑(すいらくえん)」は、池泉回遊式の美しい日本庭園で、お茶などが楽しめます。

渋沢栄一が建立した「南湖神社」 ©ふくしまの旅
渋沢栄一が建立した「南湖神社」 ©ふくしまの旅

『南湖公園』内の「南湖神社」は、定信を祀った神社で1922年(大正11年)に渋沢栄一によって建立されたものです。

南湖公園<Information>

  • 施設名称:南湖公園
  • 住所:福島県白河市南湖1
  • 電話番号: 0248-22-1147(白河観光物産協会)※「翠楽苑」以外散策自由
  • 施設名称:翠楽苑
  • 住所:『南湖公園』内
  • 電話番号: 0248-22-1147(白河観光物産協会)
  • 開園時間:
    • 4月~11月/9:00~17:00
    • 12月~3月/9:00~16:30
  • 休園日:
    • 4月~6月、8月~11月/無休
    • 3月・7月/第2水曜日、木曜日(祝日の場合は翌日)
    • 12月~2月/第2水曜日(祝日の場合は翌日)
    • 年末年始
  • 入園料:おとな 350円、小・中・高校生 170円
  • URL:国指定史跡・名勝「南湖公園」を歩こう

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