【岩手県】明治の岩手に実在した「鬼死骸村」とは?鬼の伝説と正体に迫る
目次
皆さんは「鬼死骸村(おにしがいむら)」という名前を聞いたことがありますか?
かつて小説『鬼死骸村の殺人』(1998年出版、吉村達也著、角川春樹事務所)の舞台になったことでその名が世に知られるようになりましたが、近年の『鬼滅の刃』ブームにより再び注目を集めています。
鬼死骸村は本当に実在していた村なのか、果たしてどんな村だったのか、実際に現地に行って調査してみました。
今回は今も地元に伝わる珍しい地名の由来と鬼の正体についても解き明かしていきます。
「鬼死骸村」とは?
現地に到着して最初に目撃した「鬼とクマに注意」の看板。周囲にはのどかな田園風景が広がり、とても鬼が出そうな雰囲気にはみえません。
鬼死骸村は明治8年まで岩手県南部に実在していた村の名前です。市町村合併により村は消滅し、現在の一関市真柴地区となりました。
鬼死骸の地名はすでに使用されていませんが、NTTの電柱には幹線名として今もその名残がみられます。
県道260号一関平泉線沿いに「鬼死骸」と書かれたバス停がありました。
こちらのバス停は平成28年までは実際に使用されていましたが、現在は残念ながら廃線となり、バス停と停留所のみが残っています。
バス停のすぐ近くにある「国鉄バス鬼死骸停留所」です。
鬼死骸村の歴史を伝える観光スポットとして新たな役割を果たしています。取材時には地域の方と思われるおばあさんがここで一休みをしていました。名前だけ見ると怖くて誰も近寄れないような停留所ですが、地元民の休憩所としても愛されている場所のようです。
鬼死骸村絵図から分かること
一関市博物館には鬼死骸村の絵図が今も所蔵されています。
今回その貴重な画像をお借りしました。
村が実在していた当時の人口は約400人ほどです。
村の中心には「鹿嶋神社」、そのすぐ東に「鬼石」と書かれた石が配置されています。この石が村の秘密を解き明かすカギかもしれません。
地名の由来
なぜこの地域はかつて「鬼死骸村」という恐ろしい名前で呼ばれていたのでしょうか。
その謎は、今から1,200年以上も昔、平安時代の蝦夷征伐にまでさかのぼります。
延暦20年(西暦801年)、朝廷から征夷大将軍を任じられた坂上田村麻呂は、東北地方の支配を強化するため陸奥国(むつのくに、現在の東北地方)に攻め入り、多くの蝦夷がこの地を守るため戦いを繰り広げました。
しかし、必死に抗戦するも蝦夷はあえなく戦いに敗れ、果敢に戦った蝦夷の首領「大武丸(おおたけまる)」は打ち首にされました。
大武丸の首から下の亡骸は、鹿嶋神社近くに埋葬され、その埋葬場所が「鬼石」の下と伝えられています。
ここで「首から上は?」と思われた方もいるかもしれません。
大武丸の首は宮城県へ飛んで行き、現在の宮城県大崎市鬼首(おにこうべ)の地名の由来になったという伝説が残されています。(由来は所説あり。)
鬼死骸グッズを紹介
鬼死骸村の由来や史跡を広く発信し、次世代へ伝えていく活動を行っている「真柴まちづくり協議会(一関市真柴市民センター内)」では、地名にちなんだ様々なグッズを製作・販売しています。
今回、ここでしか買えない貴重な鬼死骸グッズを見せて頂きました。
お土産にぴったりな「木製のストラップ」や「寄せ木細工のコースター」は地元の大工さんの協力により製作された一品です。
今後、これらのグッズは一関市のふるさと納税返礼品に登場する予定とのこと。それまではぜひ現地に行って購入しましょう!
真柴まちづくり協議会では、鬼死骸村ゆかりの地巡りに欠かせない「現代版鬼死骸村Map」を作成し、鬼死骸停留所で無料配布しています。
今回紹介した史跡のほかにも大武丸の亡骸の一部とも伝えられる「あばら石」や鬼死骸の地名が入っている神社「鬼死骸八幡神社」など鬼死骸観光に役立つ情報が満載なので、必ずゲットすることをおすすめします。
まとめ
明治に実在した「鬼死骸村」の鬼の正体は、生まれ育った東北の地を守るために命がけで戦った蝦夷の英雄、大武丸であることが分かりました。
地図もインターネットもない時代、朝廷からみれば未開の地東北に住み、自分たちに従わない人間は「未知の存在=鬼」と表現したのかもしれません。
大武丸は東北に住む人たちからみれば、鬼ではなく郷土と仲間を守るために果敢に戦い抜いた英雄です。
珍しい地名とともに、その勇気と魂がいつまでも語り継がれていくことを願います。
国鉄バス 鬼死骸停留所<Information>
- 名 称:国鉄バス 鬼死骸停留所
- 住 所:岩手県一関市真柴祈祷33
Google Maps
真柴市民センター<Information>
- 名 称:真柴市民センター
- 住 所:岩手県一関市真柴川戸3−1
- 電話番号:0191-26-2523
- 公式URL:真柴市民センター