【秋田県秋田市】土崎から始まった秋田市の発展-流通の中心として発展した雄物川河口の土崎湊
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秋田市を流れる雄物川(おものがわ)河口には秋田県最大の貿易港秋田港があります。秋田港は地番的には土崎港(つちざきみなと)になっていて、昔からの名称土崎湊に由来しています。
秋田市は、江戸時代に新たに入部してきた佐竹義宣(さたけよしのぶ)が、久保田と呼ばれた地に新たな居城、久保田城を建てその周りに造られた城下町を中心に発展してきましたが、それ以前は土崎湊が中心地だったのです。
飛鳥時代から秋田の玄関口だった土崎湊
秋田が日本の歴史上に登場するのは、奈良時代に書かれた歴史書「日本書紀」の中です。大和朝廷は東北から北に住んでいた先住民族蝦夷(えみし)を制圧するために、658年(飛鳥時代)阿倍比羅夫(あべのひらふ)を長とした軍を秋田に派遣しました。軍は日本海を北上し齶田浦(あぎたうらのうら)から上陸したといわれています。この“齶田”が“あきた”に転じたといわれていて、齶田こそ土崎だったと考えられています。
齶田には、733年に蝦夷征伐の最前線の基地として出羽柵(でわのさく/いではのき)と呼ばれる砦(古代城柵)が築かれ、760年頃には秋田城と改称されました(日本書紀)。秋田城は、900年代中頃まで大和朝廷の最北にある出先機関として機能していたようですが、東北地方が平定されるに従い、その役割を終えました。
「出羽柵」や「秋田城」は1972年(昭和47年)から続けられている発掘調査で謎だった部分の多くが判明してきました。特筆するのは、土崎湊が果たした役割です。
土崎湊は古代から外国との窓口として発展。秋田城からは歴史的発見
当時の流通の中心は舟運で、特に朝廷と秋田は土崎湊で結ばれていました。しかし、秋田城の遺跡に当時の日本にはなかったものが発見されたのです。汚物を水で流す水洗トイレです。もちろんこれも大発見だったのですが、それ以上に流された汚物の中に日本にはいなかったはずの豚の寄生虫が発見されたことが大きな注目を集めました。
当時の日本、特に秋田地方には豚を食べる習慣がなく、豚もいなかったので、寄生虫がいるはずがありません。しかし、日本海を挟んだ中国大陸には、豚を好んで食べていた渤海(ぼっかい)という国があり、数回に渡って日本に使節団を送り込んでいました。このことは当時の記録にあるのですが、その寄港地がどこかは正確には分かってなかったのです。
秋田城の水洗トイレから発見された寄生虫の遺物は、まさしく渤海国の使者が訪れていたという証拠と考えられました。同時に、秋田城に近い遺跡からは、中国産の陶磁器や唐銭、宋銭などなどが多数発見され、土崎湊が国内ばかりでなく、外国との交易を行っていたと類推される大きな湊だったことが判明したのです。
秋田城跡歴史資料館<Information>
- 施設名称:秋田市立秋田城跡歴史資料館
- 所在地:秋田県秋田市寺内焼山9-6
- 電話番号:018-845-1837
- 開館時間:9:00~16:30
- 休館日:年末年始(12月29日~1月3日)
- 入館料:一般 210円、高校生以下 無料
- 施設名称:秋田城跡史跡公園
- 年中無休
- 入園無料
- URL:秋田市立秋田城跡歴史資料館
- アクセス:
- 鉄道/秋田新幹線・JR奥羽本線秋田駅から路線バスで約20分、秋田城跡歴史資料館前バス停下車
- 車/秋田自動車道秋田北ICから約15分
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久保田城の城下町に土崎湊の商人たちが移転して町は一時的に閑散となる
戦国時代には土崎湊は、戦国武将安東氏の領地となります。安東氏は秋田城よりもっと土崎湊に近い場所に湊城を築きます。当時の土崎湊は、周辺地域との交易を中心にさらに発展し、賑わっていました。
江戸時代に入り、徳川家康から出羽国(秋田県)に転封(てんぽう/移動)を命じられた常陸国(茨城県)の大名佐竹義宣は、与えられた湊城が手狭なため、1年後には少し離れた久保田に新築した久保田城に移りました。城下町には土崎湊の裕福な商人たちを呼び寄せたため、土崎湊は閑散としてしまったといわれています。
佐竹義宣は土崎湊の重要な役割を認識
土崎湊は、秋田最大の河川、雄物川の河口に位置し、内陸部と土崎を結ぶ大動脈であり、また久保田城下とは支流の旭川でつながっており、船で大量の物資を運ぶことができたのです。義宣はこういった土崎湊の重要性を認識しており、すぐに年貢米などを扱う蔵を造り、港としての機能を復活させます。
土崎湊に集められた荷物は、日本海を行き来していた北前船に積み込み、関西地方へ送り出されました。北前船とは江戸時代に大きな港に立ち寄りながら日本海を行き来して巨額の商売をしていた船です。土崎湊をはじめとする東北地方の港では関西向けの特産物を積み込み、東北や北海道には生活必需品や食料などを下ろし、京都などの文化を伝えました。
北前船によってさまざまな物資が秋田に持ち込まれる
北前船の最盛期には、土崎湊は久保田城下より賑わっていたといわれています。その様子は「秋田街道絵巻」「秋田風俗絵巻」などの江戸時代の図絵に描かれています。
土崎湊を中心とした雄物川を利用した船運は、山形との境部分に位置する湯沢までに約85か所もの船着き場があり、年貢米を中心に土崎湊まで運び、帰りの船で生活物資を運んできました。さらに奥の山中にあった秋田藩の資金源だった院内銀山(いんないぎんざん)からの産出物の搬送にも雄物川の船運が利用されたのです。土崎湊を中心とした雄物川の船運が、秋田県全体の暮らしを支えていたことが分かります。
土崎湊の扱っていた物品は、1810年の記録(湯沢叢書 6『雄物川の河川交通』)によると、積み出し品は、米が約15万石(年貢米等)と圧倒的な量で、ほかに大豆・小豆約7千石、麦約1千石など特産品が多くなっています。北前船などから下ろされたのは、木綿が最も多く約15万5千反でほかに綿、古着などの衣類、塩、砂糖、身欠きニシン、お茶などの食料品、半紙、ロウソクなど東北地方ではあまり生産されていない生活必需品が主でした。
砂がたまり水深が浅く大型船が停泊できなかった土崎湊
土崎湊には大きな欠点がありました。雄物川の河口に位置し、すぐに外海だったため河口部分が砂州となっていて水深が浅く、大型船だった北前船が近づけなかったのです。北前船は沖に停泊し、荷物は小型船に積んで港と北前船を往復していました。
さらに、岬に囲まれていないため、悪天候の日や波の高い冬場などは港としての機能が不能となってしまうのも悩みの種でした。
この欠点は江戸時代を通して解決できず、明治時代になってからの大改修を余儀なくされたのです。
土崎湊は秋田港として明治時代以降大改修を施し、近代港湾として整備された
明治時代に入り、住民たちは港湾整備の請願を秋田県に提出し、明治30年代になりようやく大型の汽船が停泊できるようになったのです。1902年(明治35年)に奥羽本線の土崎駅が開業し、土崎港へ陸揚げされた物品は、鉄道を使って各地に運ばれるようになりました。鉄道の開業で土崎港は以前にも増して取扱量が増加したのですが、反面雄物川を使った船運は衰退してしまうという皮肉な結果となったのです。
明治時代以降も土崎港の改修工事は行われ、1938年(昭和13年)に完成にこぎ着けます。これにより港が土砂に埋まることがなくなり、常時大型船の発着ができるようになりました。しかし、第2次世界大戦末期には土崎が空襲され、港は甚大な被害を受けたのです。戦後、麻痺した港を取り戻すために後廃船となった軍艦3隻を沈めて防波堤にする工事が行われ、港の機能を一応回復させることができました。
戦後の土崎港は、1965年(昭和40年)に秋田湾地区新産業都市の指定を受け、近代港湾への本格的整備がはじまり、現在では4万トン級の船舶が接岸できる岸壁も完成してさらに大きく発展しています。
国の重要無形民俗文化財でユネスコ無形文化遺産の「土崎港曳山まつり」
土崎港曳山まつりは、土崎に伝わる300年以上の歴史ある祭りです。祭りは7月20日、21日の2日間開催され、戦国時代の武者人形を乗せ、歴史上の有名な場面を再現した“ヤマ”“ダシ”と呼ばれる曳山(ひきやま)が町を練り歩きます。曳山は町内ごとに毎年新しく作られ、その荒々しさや装飾を競い、“寄せ太鼓”や“湊ばやし”などの港ばやしが雰囲気を盛り上げ、町は祭りの熱気に包まれるのです。
「土崎港曳山まつり」は、古代秋田城の跡地に建てられた土崎神明社で1700年代初頭に始められたと伝わる祭りです。土崎港曳山まつりは国の重要無形民俗文化財に指定され、さらに、2016年には「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産へも登録されました。
土崎神明社<Information>
- 施設名称:土崎神明社(湊城跡)
- 所在地:秋田県秋田市土崎港中央3-9-37(秋田市土崎港駅前通り)
- 電話番号:018-845-1441
- URL:土崎神明社
- アクセス:
- 鉄道/JR奥羽本線土崎駅から駅徒歩で約4分
- 車/秋田自動車道秋田北ICから約15分