石雲寺の石碑

【宮城県大崎市】伊達三傑と称された名将「茂庭綱元」の血筋が眠る石雲寺の茂庭家霊屋

宮城県大崎市松山の地には、伊達家の重臣として有名な鬼庭(茂庭)家の霊屋があります。

後に伊達三傑と称された茂庭綱元の二男・良元の時代から代々この地を治めていたことに由来するのですが、今回の記事ではそんな鬼庭(茂庭)家の血筋と歴史を探ってみました。


伊達家に代々仕えていた鬼庭(茂庭)家の血筋

鬼庭家は藤原北家利仁流斎藤氏の流れをくむ一族で、伊達家8代当主伊達宗遠の戦に鬼庭氏が先鋒を務めたという記録が残るほど古くからの伊達家の家臣でした。

鬼庭氏11代当主の良直(左月斎)の時代に、伊達家16代当主伊達輝宗(伊達政宗の父)から一族の家格を与えられ伊達家重臣の地位を確立しました。この良直(左月斎)は伊達政宗が大敗を喫した1586年の「人取橋の戦い」で政宗を逃がすために殿軍を務め、壮絶な討死を遂げています。

その後、鬼庭家の家督を継いだ子の綱元は政宗から奉行職を拝命します。主に行政面から伊達家を支えた綱元は後に伊達成実、片倉小十郎景綱と並んで伊達三傑と称されるまでになります。

そして政宗による葛西大崎一揆の煽動が露見した際、豊臣秀吉への弁明のため上洛し、以降は京で秀吉との折衝を担当。綱元は秀吉に気に入られ「庭に鬼がいるのは縁起が悪い」と、秀吉の命により鬼庭から茂庭へと改姓したといわれています。

しかし、この秀吉との親密な関係が政宗からの疑念を招き、1595年に隠居を命じられます。この命令に憤激した綱元は伊達家を一時出奔。本多正信を介して徳川家康から誘いを受けたともいわれますが、出奔から二年後に赦免されて伊達家に帰参した後は、父・良直が務めていた評定役を拝命し、政宗が死去する1636年まで仙台藩の行政部門の統括者として活躍しました。

茂庭家霊屋内に安置されている良直、綱元、良元らの木像座像
茂庭家霊屋内に安置されている良直、綱元、良元らの木像座像

ちなみに茂庭家は代々長寿の家系で、綱元も92歳まで生きました。人取橋の戦いで命を落とした綱元の父、良直(左月斎)は享年73歳でしたが、茂庭家では早世の部類に入るようです。

仙台市太白区茂庭は関係がある?

仙台の方ならご存じかと思いますが、仙台市の太白区には「茂庭」という地名が現在も残っています。その名称から上述の茂庭氏と関係がありそうですが、結果からお話しすると全く別の系統のようです。

仙台藩主伊達氏の家臣であることは同じですが、こちらの茂庭氏は鎌倉政権と奥州藤原氏の争いである奥州合戦で活躍した藤原北家秀郷流河村氏の流れをくむ一族。

奥州合戦の恩賞としてこの地を与えられ、名取郡茂庭(現:宮城県仙台市太白区茂庭)の地に居館を設け土着したことから、以後茂庭氏を名乗るようになったようです。


綱元の子、良元の時代から始まる松山茂庭氏

綱元の隠居、長男・安元の早世により茂庭氏の家督を相続した二男・良元は、1603年に志田郡松山城を拝領し、以後茂庭氏は幕末に至るまで松山を所領としました。

茂庭氏は最終的に表高13,000石を擁し、仙台藩内において一門以外で万石級の所領を有していたのは、白石片倉氏と松山茂庭氏だけでした。

しかし良元の子・定元と孫・姓元が有名なお家騒動「伊達騒動」の中心人物であったことから、以降仙台藩の政治の中枢からは遠のくこととなります。


良直(左月斎)が建立した茂庭家の菩提寺「石雲寺」

茂庭家の菩提寺である龍門山石雲寺は1571年に11代当主・良直(左月斎)の手によって山形県米沢市川井に創建されました。

以降、伊達家の岩出山移封とともに岩出山へ、茂庭家の松山城拝領により1605年に松山へと、茂庭家とともに移転を繰り返したといわれています。

石雲寺の入り口
石雲寺の入り口

松山の中心部から県道242号線を南下、かつて茂庭氏の足軽屋敷が連なっていた入町の南端にあります。

石雲寺最古の建築物である山門

石雲寺の山門
石雲寺の山門

山門は石雲寺境内の中で最古の建築物で1663年に造営されたものといわれています。薬医門形式で「龍門山」の山号額があり、1989年に大崎市指定文化財に指定されています。

宮城県指定天然記念物のコウヤマキの木

石雲寺のコウヤマキ
石雲寺のコウヤマキ

石雲寺境内に生えるコウヤマキは推定樹齢300年以上といわれる古木で、1988年に宮城県指定天然記念物に指定されています。

石雲寺本堂

石雲寺の本堂
石雲寺の本堂

石雲寺の本堂。この本堂は江戸時代末期の1861年に造営されたもの。

茂庭家霊屋へと続く道
茂庭家霊屋へと続く道

本堂からコウヤマキの辺りまで少し戻り対面を見ると山の上へ続く道があります。この道を上っていくと「茂庭家霊屋」があり、さらに山道を登っていくと「茂庭家松山当主及び妻の墓域」があります。

茂庭家霊屋

茂庭家霊屋
茂庭家霊屋

御霊屋は創建当初は「御影堂」と呼ばれており、江戸時代中期の1708年に建てられました。

松山茂庭家初代の良元、二代定元、三代姓元までが祀られた三代一堂で、1986年に宮城県指定有形文化財に指定、安置されている「茂庭家霊屋内坐像群」は1973年に大崎市指定有形文化財(彫刻)に指定されています。

内部には八体の木造彩色座像と伊達、茂庭両家歴代の位牌が安置されており、毎年1月16日と8月16日に霊屋の御開帳が行われています。

茂庭家松山当主及び妻の墓域

四代嵩元以降の歴代藩主と妻の墓域は御霊屋からさらに山を登ったところにあります。

茂庭家霊屋山頂の看板
茂庭家霊屋山頂の看板

こちらは「茂庭家松山当主及び妻の墓域」として2004年に大崎市指定史跡に指定されています。

石雲寺<Information>

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11代良直(左月斎)と12代綱元の墓所は別の場所に

伊達家重臣の地位を築いた11代良直(左月斎)と伊達三傑と称された12代綱元の墓所は別の場所に存在します。

11代良直(左月斎)の墓所

良直(左月斎)の墓所はその最後の地である人取橋古戦場跡(現:福島県本宮市)にあります。功士壇という戦死者を葬った場所で、1828年に茂庭氏の子孫によって良直(左月斎)の墓碑が建立されました。

人取橋古戦場跡<Information>

  • 名  称:人取橋古戦場跡
  • 住  所:〒969-1107 福島県本宮市青田茂庭
  • 電話番号:ー
  • 公式URL:ー

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12代綱元の墓所

綱元の墓所は隠居後に移り住んだ文字(現:宮城県栗原市栗駒文字)の地にあり、自身が創建した洞泉院の境内に、自身が彫った石仏を墓標として存在します。

茂庭綱元の墓<Information>

  • 名  称:茂庭綱元の墓
  • 住  所:〒989-5361 宮城県栗原市栗駒文字愛宕下
  • 電話番号:ー
  • 公式URL:ー

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まとめ

伊達家の歴史を探ると必ずといっていいほど名前を目にする鬼庭(茂庭)氏。松山の地に縁があることを、私自身今回の取材で初めて知ることができました。

主要人物の墓所が離れたところに点在しており一度に見て回るのは困難ですが、近くを訪れた際には足を運んでみてはいかがでしょうか。


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