【秋田県男鹿市】『男鹿の寒風』  菅江真澄の歩いた男鹿半島をたどる第3回 -大地震に遭遇-

江戸時代の紀行家で菅江真澄(すがえますみ/1754年~1829年)が、男鹿半島の旅を記した[男鹿の五風]をもとに、江戸時代と現代を対比しながら紹介する<菅江真澄の歩いた男鹿半島をたどる>第3回は、男鹿紀行最終巻、1810年7月18日から始まる『男鹿の寒風』です。『男鹿の寒風』では、歴史に残る大地震に遭遇した時の心情や周りの惨状などを詳細に記述しています。

本稿は秋田県立博物館や国立公文書館写本、国立国会図書館写本および2000年に出版された現代語訳本などを参照しながら書き進めます。江戸時代の日付は但し書きがない限り、真澄が記した日時(旧暦)です。

菅江真澄 @秋田県立博物館

参照


男鹿半島南部を西から東へと歩く

『男鹿の寒風』は、1810年7月17日に終了した『男鹿の島風』に引き続いて、7月18日から男鹿半島の南西端にある門前(男鹿市船川港本山門前)から始まります。

真澄が舞茸のような形と表した「椿の白岩」

真澄が描いた江戸時代には“椿の白崎”と呼ばれていた「椿の白岩」 『男鹿の秋風』 国立公文書館蔵写本より

門前から脇本(男鹿市脇本)に向かう途中、椿の浦(椿漁港/男鹿市船川港椿)で白い色をした「雲がわきあがる姿をした二十尋(にじゅうひろ/約30m)ばかりの高い岩」の前を通ります。案内人に「これは椿の白崎です」と説明されたこの岩を、真澄は『男鹿の秋風』の中でも、図絵とともに書き残しています。その時は雨だったようで、「雨と潮とにぬれてその色は青ばみ、異様に見えた」と記していたのですが、今回は天気が良く名前のように真っ白な岩でした。現在では<椿の白岩(つばきのしらいわ)>と呼んでいるのですが、真澄が舞茸のような形と形容したため<まいたけ岩>とも呼ばれています。

<椿の白岩>は約2,100万年前の火山活動で噴出した火山礫が固まった火山礫凝灰岩(かざんれきぎょうかいがん)で、真澄によって舞茸と呼ばれたスプーンで付けられたような丸い形は、岩石の風化によって自然に作られたものです。周辺には白のほか緑色をした岩(グリーンタフ)も散見しています。これも<椿の白岩>と同じ火山礫凝灰岩の一種で、地下にあるマグマによって熱せられた水の影響で含有物質が緑色に変化したものです。

真澄に舞茸みたいといわれた「椿の白岩」 ©男鹿半島・大潟ジオパーク

INFORMATON

  • 施設名称:椿の白岩
  • 所在地:秋田県男鹿市船川港椿
  • 電話番号:0185-24-4700(男鹿市観光協会)
  • アクセス:
    • 公共交通機関/JR男鹿線男鹿駅から路線バスで約30分、椿漁協バス停下車
    • 車/秋田自動車道昭和男鹿半島ICから約40分

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男鹿半島中部の村で大きな地震に遭遇

脇本城跡にある菅原道真を祀る「菅原神社」 ©けいすけ「日本の城写真集」

その日のうちに脇本に到着した真澄は、中世の城脇本城跡のある生鼻崎(おいばなさき)に行き、菅原道真(すがわらのみちざね)を祀る菅大臣の社(菅原神社)に参拝しました。脇本からは男鹿半島を縦断し、北側の海岸沿いにある鮎川(男鹿市北浦相川)の知人宅で8月半ばまで過ごします。

8月17日になり、不気味な異変が続きます。地震です。18日も寺の塔が倒壊するほどの地震がありました。8月25日(真澄は9月25日と書いていますが、8月25日の書き間違い)には菅原神社に参拝するため、再度脇本へ向かったのですが、天候が悪く途中にある島田(男鹿市男鹿中滝川島田)という村で過ごしました。

8月27日には天気が回復し、ようやく出かけようとしていた矢先、大地震が起こります。その時の様子を真澄はこう書き記しています。

「軒、庇(ひさし)がかたむき、人びとは戸外へ逃げまどい、泣き叫びながら病人や老人の手をとり(中略)、乳児をさかさにかかえて走り回るものもある」「梁はすさまじい音をたてて倒れ落ちた。たっているとふり倒れ、軒端の山も崩れ落ちるありさまで、生命の危険を感じて、樹にすがり、竹の林に逃れた」

男鹿大地震の被害が最も大きかったといわれる菅原神社のある生鼻崎(脇本の浦)。真澄は地震の前に描いていた。『「男鹿の寒風」 秋田県立博物館蔵写本より

本震のあと何日も余震があり、南海岸の集落は壊滅状態

その日のうちに何度も余震があり、2日後の29日になっても地鳴りとともに余震が収まりません。とりわけ行く予定だった脇本など男鹿半島南海岸の被害がひどく、どの村も残っている建物はないほどで、死傷者も多数出ました。

この1810年8月27日(太陽暦9月25日)午後2時に起きた大地震は、真澄も書いているように、かなり前から予兆ともいえる現象が頻繁に起きていました。後に<男鹿大地震または羽後地震>と呼ばれるこの地震は、震源が脇本沖、マグニチュード6.6で、真澄が男鹿半島北岸の「北浦は被害が少ない」と書いているように、被害範囲は小さかったようです。それでも被害地域の住居数約2,900戸に対し、倒壊戸数1,400戸、死者58人もの大きな被害があったと記録されています。震源の深さなどは分かりませんでしたが、直下型地震だったろうと推定されます。(出典:「1983年日本海中部地震 男鹿市の記録」秋田県男鹿市)

男鹿大地震で先端700mが崩れ落ちた生鼻崎 ©男鹿市

この大地震は地形にも大きな変化をもたらしています。脇本城跡や菅原神社が鎮座する生鼻崎は先端の700mほどが崩れ落ちてしまい、現在の形になったのです。


秋田県では男鹿地震の6年前にも地形が大きく変化した象潟地震が発生

真澄は、自身が30歳の頃(1784年)に訪れた出羽国(秋田県)の名所、象潟九十九島(きさかたくじゅうくしま)が、20年後の1804年、大地震に襲われ埋もれてしまったという話を思い出しています。象潟九十九島の景観は、古来より松島に並び称されるほど美しいといわれ、松尾芭蕉をはじめ多くの人々が観光に訪れていました。1804年に起きた大地震では、2m以上土地が隆起し、浅い海だった九十九島の海底が一夜にして陸地になってしまったのです。

真澄は男鹿大地震後の悲惨な風景を図絵には残しませんでしたが、地震の後最もひどい被害を受けた震源に近い脇本を訪れてその悲惨な状況を克明に記していて、男鹿大地震の記録として後世に貴重な資料を残しています。

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  • 施設名称:生鼻崎、脇本城址、菅原神社
  • 所在地:秋田県男鹿市脇本脇本七沢外
  • 電話番号:0185-24-4700(男鹿市観光協会)
  • アクセス:
    • 公共交通機関/JR男鹿線脇本駅から徒歩で約30分、またはタクシー利用
    • 車/秋田自動車道昭和男鹿半島ICから約25分

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1月には男鹿半島北部の村でなまはげを体験

10月、しばらくは地震に遭遇した集落で過ごし、藩からの支援などもあって落ち着いたところで旅を再開しました。男鹿半島の付け根部分を北上し、八郎潟付近で周辺の散策などをしながら2か月ほど過ごします。1811年の正月は八郎潟と日本海の中間にある宮沢(男鹿市野石)村で迎えます。のんびりと正月気分を味わっていると、15日に突然<なまはげ>が入ってきます。

真澄が描いた<なまはげ>。説明文によると江戸時代は1月15日に行われていたことが分かる 『男鹿の寒風』 秋田県立博物館蔵写本より

「夕暮れふかく、火を灯していて囲炉裏にみんなが車座になっている時、突然角がある朱塗りの仮面をかぶった、真っ黒い髪を振り乱し、簔(みの)を着て、手には小刀を持って“わあ”といって不意に入ってきた。“生剥ぎ(なまはぎ)だ”とこどもたちはびっくりして声も立てずに人にすがりついて物陰に隠れている。これに餅を与えると“わあ怖いぞ、泣くな”などと脅すのである」

“生剥ぎ”は<なまはげ>の語源で、字面からみると“生身を剥がれる!”という恐ろしいことを想像してしまいますが、暖をとる火にあたりすぎるとできる低温火傷の茶色いアザを<ナモミ>といって、それを剥ぐことだそうです。なまはげは、格好は鬼のようですが、冬の農閑期に炬燵(こたつ)や囲炉裏(いろり)ばかりに当たっている怠け者をいさめ、無病息災、五穀豊穣を祈る山からの使者といわれています。

<なまはげ>。現在は12月31日に行われている ©男鹿市

なまはげ>は[男鹿のナマハゲ]として国の重要無形民俗文化財に指定されています。また、「来訪神:仮面・仮装の神々」の1つとしてユネスコ無形文化遺産代表一覧表に記載されました。

15日以降雪が積もる中、男鹿で正月を過ごし、2月1日に『男鹿の寒風』を終わっています。


菅江真澄が歩いた男鹿半島には散策できるよう90か所にも及ぶ標柱や説明板が設置

菅江真澄が男鹿半島を歩いた道は[菅江真澄の道]として整備され、何らかの関わりのある場所83か所に標柱が、8か所には詳しい説明板が設置されています。男鹿半島散策の一助として活用してください。


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