【青森県】本州最北の地にある日本最大規模の縄文遺跡「三内丸山遺跡」
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三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市大字三内字丸山にある古代遺跡で、縄文時代前期から縄文時代中期の終わりごろ(約5900~4200年前)にかけて、千年以上にわたって存続していたとみられる大規模集落の跡です。
日本最大級の古代遺跡
三内丸山遺跡は、沖館川の河岸段丘となっている高台に立地し、当時はクリ、クルミなど手入れされた落葉広葉樹林に囲まれていたと考えられています。
その総面積は35ヘクタールほどに及び、国内でも最大級の大規模集落跡であることから1997年に国の特別史跡に指定され、2021年には日本版ストーンサークルとして有名な秋田県の大湯環状列石などとともに「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録されました。
この場所に遺跡があることは江戸時代から知られており、弘前藩の諸事情が記された『永禄日記』に多量の土偶が出土したことが記録されている他、東北地方をはじめとする諸国を遊覧していた菅江真澄も、土偶などが出土していたことを紀行文に書き留めています。
昭和に入ると、この場所に青森県の県営野球場の建設計画が持ち上がったことから、事前に埋蔵文化財の調査が行われました。その結果として、縄文時代の大規模な集落跡であることが明らかとなり、建設計画は中止され、遺跡の保存と活用が決定されました。
三内丸山遺跡からは、縄文時代の大規模な掘立柱建物や竪穴式住居、高床式倉庫、貯蔵穴、土坑墓などの跡がみつかっており、これらは道路で結ばれていて、計画的に配置されたものであることがうかがえます。
土器・石器を含めた大量の出土物
遺跡からは土器、石器を中心に大量の遺物が発掘され、その数は段ボールで数万箱に及んだとされています。
その他にも日本最大の板状土偶などの土製品や、交易で得たと推測される黒曜石、琥珀などの鉱物、漆器、翡翠製大珠などの加工品や装飾品も出土しています。
復元された数々の建築物
三内丸山遺跡内では、発見された痕跡から当時の様子を再現した数々の復元建築物を見学することができます。
六本柱建物跡
地面に穴を掘り柱を建てて造った建物跡。木柱の周囲と底を焦がす防腐処理が施されていたため、発見時、クリの木柱が腐らずに残っていました。
三内丸山遺跡で発見された遺構の中で最も重要視されているもので、正確に配置された柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2m、2m、2mで全て統一されています。
これはその当時既に測量の技術が存在していたことを示すもので、集落の住民が高度な技術を持っていた証拠とされています。
一方でこの建築物が「何のための建物だったのか?」は謎に包まれたままであり、当時の復元プロジェクトチームの考証で現在の形に復元されていますが、「この形が正しいのか?」というのもわからないままだそうです。
大型竪穴建物跡
長さが10メートル以上ある住居は大型住居と定義され、三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルもある住居跡が発見されています。
集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅など、何らかの理由で住民が集まる場所であったと考えられています。
竪穴建物跡
当時の一般的な住居跡の復元物で、茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った建物がそれぞれ想定・復元されています。
千年以上にわたって存続したと考えられている集落なので、屋根を含めた住居の形や柱の配置、炉の位置や構造は時代によって変化していったものと思われます。
掘立柱建物跡(高床倉庫跡)
集落の中央、南盛り土西側などから掘立柱建物のものであると推測される柱穴群が密集した形で発掘されましたが、周辺から生活の痕跡が確認できなかったため、この掘立柱建物は高床建物または倉庫であった可能性が高いと判断され復元されています。
地面に柱穴を掘り、柱を建てて屋根を支えたものと考えられます。
まとめ
三内丸山遺跡には、ほかにも土坑墓や道路跡、貯蔵穴や当時のごみ捨て場など、様々な遺構が発見されています。
施設の入り口にあたる縄文時遊館には、様々な出土品の展示や遺跡の情報を確認できるミュージアムのほか、大型シアター、体験工房、レストラン、土産物店などがあり、青森県を代表する観光施設のひとつとしても好評です。
三内丸山遺跡<Information>
- 名 称:特別史跡 三内丸山遺跡
- 住 所:〒038-0031 青森県青森市三内丸山305
- 電話番号:0177-66-8282
- 公式URL:https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/