【福島県福島市】「黒塚の岩屋」から「文知摺石」へ。伝説の岩を見学した松尾芭蕉

福島(福島市)は、戦国時代末期に、当時会津地方を支配していた上杉景勝(うえすぎかげかつ/1556年~1623年)が領有することになったのですが、それまでは伊達政宗(だてまさむね/1567年~1636年)の領地でした。政宗は、豊臣秀吉(とよとみひでよし/1537年~1598年)が天下統一のために北条氏を攻め落とした「小田原の戦い」(1590年)の参戦に遅れてしまい、秀吉の怒りを買い、福島の地から追い出されてしまいます(奥州仕置き[おうしゅうしおき]/1590年)。

福島の地を取り戻したい正宗は景勝に対して執拗に攻撃を仕掛けたのですが、力及ばず1600年信夫山(しのぶやま)での戦いに負け(松川の合戦)、仙台(宮城県)に敗走しこの地に城を構えることになったのです。

福島市内から見た信夫山 ©福島市

奈良の郡山藩から福島に移り、福島藩初代藩主となった本多忠国

福島は関ヶ原の戦い(1600年)で秀吉側だった上杉景勝が、勝者徳川家康から1601年に米沢(山形県)への移動減石が言い渡されます。主のいなくなった福島は、1679年までは江戸幕府の直轄領となっていましたが、その年奈良の郡山(こおりやま)藩主本多政長(ほんだまさなが)/1633年~1679年)の養子で弱冠12歳だった本多忠国(ほんだただくに/1666年~1704年)が奈良郡山から移り、福島藩が成立しました。

福島藩成立後の福島は、城下町として、また奥州街道の宿場町として発展します。

江戸より奥州津輕迄道筋之圖(福島宿) 所蔵:国立国会図書館

須賀川宿から「黒塚の岩屋」を見学し福島宿へ向かった松尾芭蕉

『おくのほそ道(奥の細道)』で弟子の曾良とともに江戸の北千住から奥州街道を北上中の松尾芭蕉は、1689年に福島宿を訪れます。

1689年新暦6月8日に陸奥国(むつのくに/東北地方)に入った芭蕉一行は、白河の関を訪ねたのち、須賀川宿(須賀川市)の知人宅に8日間逗留します。その間には名所の「乙字ケ滝」(おつじがたき/玉川村)などを見学、6月16日に福島宿に向け出発しました。

観世寺境内にある鬼婆の住み家といわれる「黒塚の岩屋」 ©ふくしまの旅

途中二本松城下(二本松市)で、「黒塚の岩屋」(くろづかのいわや)を訪ね、福島宿には新暦6月17日に到着します。


鬼婆伝説の残る安達ヶ原「黒塚の岩屋」

『黒塚の岩屋』は、二本松市安達ヶ原にある『観世寺』にまつわる物語に登場する史跡で、能で演じられる演目『安達ヶ原』(宝生流[ほうしょうりゅう]/観世流[かんぜりゅう]では『黒塚』)として知られています。

奉公していた娘の病気を治すためには、おなかの中にいる胎児の生きもが必要といわれ、泊まりに来た恋衣(こいぎぬ)のおなかを割いてしまった岩手(いわて)。死んだ恋衣が後になって実の娘だと分かり、岩手は狂気し鬼婆になって次々と人を襲い……。 「安達原黒塚物語」一寿斎芳員(画) 1855年 収蔵:立命館大学アート・リサーチセンター

「黒塚の岩屋」は、鬼婆の住み家といわれている複雑に積み重なる巨石で、「安達ヶ原物語」ゆかりの『観世寺』境内にあります。そこから少し離れた阿武隈川沿いには「黒塚」があり、亡くなった鬼婆を埋めた墓といわれています。

鬼婆が眠っているといわれる黒塚 ©ふくしまの旅

INFORMATION


  • 施設名称:黒塚の岩屋(観世寺)
  • 住所:福島県二本松市安達ヶ原4-126
  • 電話番号:0243-22-0797
  • 拝観時間:9:00~16:30
  • 休観日:不定休
  • 拝観料:おとな 400円、こども 500円
  • URL:黒塚の岩屋(観世寺)
  • 施設名称:黒塚
  • 住所:福島県二本松市安達ヶ原4丁目地内
  • 電話番号:0243-55-5122(二本松市観光連盟)
  • 見学:自由
  • URL:黒塚

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悲恋の物語が残る「しのぶもじ摺の石」を見た芭蕉の一句は

文知摺観音(普門院)境内に鎮座する「文知摺石」 ©ふくしまの旅

福島に到着した芭蕉たちは歌枕(奈良・平安時代の名所)として知られている“しのぶもぢ摺の石(信夫文知摺石)”を訪れます。

『文知摺石(もちずりいし)』は小倉百人一首にある源融(みなもとのとおる)の

“みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに”

(陸奥で織られている忍ぶもぢ摺の衣のようなかすれ乱れた模様のように、誰のせいで心が乱れ始めたのか、私のせいではないのに<あなたのせいです>)

という恋の詠で知られ、さらに源融と福島の長者の娘虎女(とらじょ)との悲恋の物語が芭蕉の関心を誘ったといわれています。

しかし、芭蕉が見た『文知摺石』は、半分土に埋まり伝説とは雰囲気がちょっと違っていました。ちょうど居合わせた地元の子どもが「この石は崖の上から落ちてきたものです」と教えてくれ、相当がっかりしたたらしく

“早苗とる手元や昔しのぶ摺”

と、伝説の物語とは全く違う“しのぶ摺”という、江戸時代にはもう作る人がいなくなってしまった布(染め物)のことを思い浮かべた句を残し、次の目的地、飯坂温泉(芭蕉は“飯塚”と記しています)に向かいました。

文知摺観音(普門院)境内にある芭蕉句碑 ©ふくしまの旅

“しのぶ摺(文知摺)”は、独特の紋様のある石に布をあてて、上から忍草(しのぶぐさ/シダ科の植物)の葉や茎を擦りつけて染める福島に伝わる独特の染め物技法で、江戸時代以前にすたれていました。『文知摺石』は“しのぶ摺”を染めるための石のことで、“鏡石”とも呼ばれています。

句の意味は

“しのぶ摺はすたれてしまったしまったけれど、(畑で)早苗を摘み取る娘たちの手つきに、その昔にしのぶ摺をしていた面影が偲ばれる”

で、伝説には全く触れない内容になっています。

『文知摺石』は、「文知摺観音」(普門院)の境内にあり、見学は自由です。

「文知摺観音(普門院)」は、福島市の史跡および名勝に指定されている景勝地で、『文知摺石』のほか、観音堂、福島県重要文化財の多宝塔、芭蕉句碑、資料館(有料)などがあります。信達(しんたつ)三十三観音第2番札所です。

普門院(文知摺観音)の観音堂 ©ふくしまの旅

INFORMATION


  • 施設名称:普門院(文知摺観音)
  • 住所:福島県福島市山口字文字摺70
  • 電話番号:024-535-1471
  • 拝観時間:9:00~17:00(冬季は16:00まで)
  • 休観日:無休(1月1日~3日は資料館のみ休館)
  • 拝観料:境内散策自由
  • 資料館入館料:おとな 200円、こども 100円
  • URL:文知摺観音(普門院)

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飯坂で源氏の遺跡を訪ね、涙した芭蕉

医王寺境内の庄司佐藤基治夫婦・継信・忠信墓碑(医王寺の石造供養石塔群) ©ふくしまの旅

『文知摺石』を出た芭蕉は、奥州街道で福島宿の次、瀬上宿(せのうえしゅく/福島市)から少し道をそれ、飯坂温泉方面へ向かいます。途中、源義経(みなもとのよしつね)の家臣で源平の戦いの折り活躍したという佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)兄弟の父元治(もとはる/基治/別名庄司)の館跡や、兄弟の菩提寺「医王寺(いおうじ)」に残されている佐藤兄弟とその嫁の墓を訪ね、その哀れさに涙を流したのです。

「医王寺」では寺宝の“義経の太刀、弁慶の笈(おい/経文など入れる背負い箱)”を目にし、訪ねたのが旧暦の5月1日(5月2日?)なので、

“笈も太刀も五月にかざれ紙幟”

(五月の節句には紙幟とともに笈や太刀も飾ってほしい)

との句を詠んでいます。

※紙幟(かみのぼり)は五月の節句に飾る紙の幟

医王寺 ©ふくしまの旅

INFORMATION


  • 施設名称:医王寺
  • 住所:福島県福島市飯坂町平野字寺前45
  • 電話番号:024-542-3797
  • 拝観料:おとな(18歳以上) 300円
  • URL:医王寺

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芭蕉一行にとって良い思い出にならなかった飯坂温泉

「医王寺」を後にした一行は飯塚温泉に行き、そこで宿泊しています。温泉には入ったのですが、宿はひどいところで、寝床は土間にむしろを敷いてあるだけ、あいにくの雨で雨漏りはするは、蚤(ノミ)や蚊に刺されてかゆいはで眠れなかったとぼやいています。

翌朝芭蕉一行は早々に飯坂温泉を発ち、馬で再び奥羽街道の桑折宿(こおりしゅく/桑折町)へ向かいます。


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