【連載④:前九年の役・後三年の役】前九年の役の流れを一変させた、清原氏の参戦
目次
黄海(このみ)の戦いで安倍貞任(あべのさだとう)に大敗した源頼義(みなもとのよりよし)、義家(よしいえ)親子は、懸命に戦力を取り戻すために奔走したとされています。
しかし、鬼切部(おにきりべ)に続く2度の大敗で思うように兵が集まらず、関東や東海地方などでも兵を募らなければなりませんでした。
その一方で、安倍氏は本拠の奥六群(おくろくぐん:岩手県)からさらに国府の勢力範囲にまで進出して、徴税や徴兵を行うほどの勢いを見せつけるのでした。
このままでは安倍氏が増強され、討伐どころかこれまで東国に築いて来た源氏の威信が大きく揺らぐと考えた頼義は、出羽(でわ:秋田県)で勢力を伸ばす清原氏を味方に引き込もうとします。
前九年の役・後三年の役(ぜんくねんのえき・ごさんねんのえき)とは?
平安時代末期の1051年(永承6年)~1062年(康平5年)と1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)にかけて、東北(岩手県および秋田県)で戦われた2つの戦役です。
前九年の役は、陸奥(むつ:岩手県)で勢力を伸ばす安倍(あべ)氏の反乱を、朝廷から派遣された源氏が清原(きよはら)氏の助力によって平定した戦役です。
そして、その後に陸奥から出羽(でわ:秋田県)にかけて支配を強めていた清原氏に内紛が起こり、そこからの家督争いが戦いに発展したのが後三年の役で、ここにも源氏が深くかかわります。
この2つの戦役によって岩手県平泉に奥州藤原氏が興り、源氏と東国武士との絆が深まり源頼朝(みなもとのよりとも)の鎌倉幕府につながっていきます。
清原軍1万、頼義率いる国府軍に合力!
出羽の仙北(秋田県仙北市・大仙市・横手市あたり)で勢力を伸ばす清原氏は、「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれる朝廷に従う蝦夷(えみし)でしたが、国府軍と安倍軍との戦いでは中立の立場でした。
頼義は清原光頼(きよはらのみつより)に、朝廷側について参戦するよう説得しますが、何としても味方につけたい頼義は、光頼に名簿を捧げるという行動に出ます。
当時、名簿を捧げるのは臣下になることを意味し、頼義が必死であったことを物語っていますが、光頼がこの行為をどう感じたかについては記録がありません。
しかし、1062年(康平5年)7月に清原氏は頼義に味方することを決断し、光頼は弟の武則(たけのり)を大将に兵10,000を陸奥に出陣させました。
出羽の清原氏とは?
その出自はあいまいで、その昔の蝦夷の反乱鎮圧のために京から来た清原令望(きよはらのよしもち)を始祖とする説が有力ですが、ほかにも諸説あります。
頼義の臣下の礼に感激したのか、あるいはライバル安倍氏を滅ぼす好機とみたのか、今となってはわかりませんが、清原氏にとっては版図を拡げる大きなチャンスと考えたのでしょう。
奥六郡へ侵攻する連合軍
清原軍10,000に国府軍3,000を併せて13,000となった頼義軍は、兵力4,000ほどの安倍軍に優勢となり、安倍軍は12の砦(安倍氏十二柵)を造り連合軍を迎え撃ちます。
しかし、緒戦の小松柵(こまつのさく:岩手県一関市)の戦いに敗れた貞任は、父頼時(よりとき)の代からの居館と政庁「並木屋敷」がある衣川(ころもがわ:岩手県奥州市)で態勢を整えました。
この並木屋敷は後に衣川柵(ころもがわのさく:岩手県奥州市)と呼ばれ、後の清原氏も居館と政庁を置いたとされ、安倍氏の拠点としては最大のものでした。
柵の南にある衣河関(ころもがわのせき)では3ヶ所で激戦が続きますが、やがて突破されて安倍軍は北にある胆沢城(いさわじょう)に近い鳥海柵(とのみのさく:岩手県金ケ崎町)に退きます。
今に伝わる衣川の戦いでの優雅な逸話
鎌倉時代に書かれた「古今著聞集」に、衣川の戦いについて次のようなくだりがあります。
戦いの大勢が決するなか、源氏の御曹司義家が敗走する敵将貞任を見つけ、戯れに「衣のたてはほころびにけり」と歌の下の句で呼びかけます。
すると貞任は振り返りながら「年を経し糸のみだれのくるしさに」と上の句をつけて返し、その即妙な対応に感じた義家は、「武士の情け」として貞任を逃がしたとする逸話です。
「衣のたて」は、「衣と鎧(よろい)」と「舘と楯」の掛詞で、「衣の縦糸(鎧の楯)がほころぶように衣川柵は破れた」とする義家に、貞任が「年月が経ち縦糸が乱れほころんでしまった」と返したのです。
しかしながら、何とも優雅なこの逸話は後世の作り話だと言われています。
衣川柵(並木屋敷)跡<Information>
- 史跡名:衣川柵(並木屋敷)跡
- 所在地:岩手県奥州市衣川並木前
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厨川の戦い、安倍氏の滅亡
敗走する貞任は鳥海柵に一度は拠ったものの、さらに北の奥六郡の北端にある厨川柵(くりやがわのさく:岩手県盛岡市)に退いて、国府軍と清原軍に最後の一戦を挑みました。
厨川柵は嫗戸柵(うばとのさく)と連立する形で構築され、現在の盛岡市西部にある舘坂・天昌寺から前九年にかけての広い地域に築かれていたとされています。
北上川などの大小の河川や高台などを利用した天然の要害で、今も残る「里館遺跡(盛岡市天昌寺町)」が厨川柵跡で、「安倍舘遺跡(盛岡市安倍館町)」が嫗戸柵の一部とみられています。
この戦いで貞任は深い傷を負い捕らえられ、弟の宗任(むねとう)は投降し、藤原経清(ふじわらのつねきよ)も捕縛されて安倍氏は滅び、延べ12年におよんだ前九年の役は終結しました。
厨川柵跡<Information>
- 史跡名:厨川柵跡
- 所在地:岩手県盛岡市前九年1丁目4
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嫗戸柵跡<Information>
- 史跡名:嫗戸柵跡
- 所在地:岩手県盛岡市安倍館町13
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安倍貞任と藤原清経の最後
深手を負った貞任は、頼義の前に引き出されたまま息を引き取とったとされています。
また、清経は阿久利川事件の際に頼義を裏切り、さらに国府軍立て直しを妨害する働きをしたことから頼義の恨みは深く、苦痛が長引く錆びた刀でのこぎり引きで斬首されたと伝えられています。
まとめ
前九年の役後、安倍氏討伐を称えられた源頼義は、その功績から伊予国(愛媛県)の受領を拝命しますが、この戦いによって源氏と東国武士は深い主従関係で結ばれることになりました。
また、奥六郡は頼義に味方した清原氏に与えられ、清原氏は陸奥と出羽に拡がる大勢力となります。
しかし、これが後に一族の対立を招き、やがて後三年の役を呼び込み、奥州藤原氏の台頭へとつながって行くのでした(前九年の役・後三年の役⑤へ続く)。