【山形県山形市】出羽57万石、最上家最大の版図を築いた最上義光公の菩提寺「光禅寺」
目次
戦国時代から江戸時代にかけて、出羽国(現在の山形県)の戦国大名として最大の版図を築いた最上義光公の菩提寺である光禅寺が山形市の中心部、鉄砲町に存在します。
最上義光とは?
最上義光(もがみよしあき)は出羽国の戦国大名、最上家の11代当主で、出羽山形藩の初代当主となる人物です。
1560年に15歳で元服。同年に寒河江氏との戦で初陣を飾り、その後も天童氏や延沢氏、尾花沢氏など、通称最上八楯(もがみやつだて)と呼ばれる有力国人連合との戦を繰り返し、出羽国を平定していきます。
その後は現在の山形県の日本海沿岸である庄内地方を巡り、大宝寺氏や越後の上杉家とも争います。
そして関ケ原の合戦時、最上領へと攻め込んできた直江兼続(なおえかねつぐ)率いる上杉軍と俗にいう「慶長出羽合戦」が勃発。見事にこれを撃退し、その功により庄内地方を領有。置賜郡を除く現在の山形県全土と秋田県の一部を領土とし、出羽山形藩57万石の初代藩主となりました。
因みに最上義光の妹、義姫(後の保春院)は伊達政宗(だてまさむね)の母にあたります。
山形市の中心部、鉄砲町に位置する光禅寺
光禅寺(こうぜんじ)は山形市鉄砲町にある曹洞宗の寺院で山号は天瀧山。
もともとは慶長寺という名称でしたが、義光の次男で二代目山形藩主である最上家親(もがみいえちか)により光禅寺と改称されました。
最上義光自身が自分の菩提寺とするために、現在の山形県大石田町にあった向川寺の春林禅冬なる人物を招請し開いた寺院です。
当初は現在の山形市七日町にありましたが、義光・家親の死後に起こった後継者を巡る内紛(最上騒動)により最上家は改易。後釜として磐城平藩より転封してきた鳥居忠政(とりいただまさ)によって現在の場所に移転されました。
移転に際して旧最上家の浪人500~600人が集まり、義光や殉死者の遺骸を現在の光禅寺まで運んだとされ、その後も旧家臣らによって現在に至るまで寺が守られてきました。
サン祖神?馬鳴(めみょう)菩薩が祀られるお堂
参道を進むとまず見えてくるのが左手のお堂に祀られる馬鳴菩薩。道祖神かと思いましたが頭の字が違う…読めません。調べてみたところ「神」の下に「虫」で、どうやら「サン」と読むらしいです。
馬鳴(めみょう)菩薩とは中国の民間信仰に由来する菩薩で、養蚕織物の神として祭られるそうです。字から想像するに「神」の「虫」とは「蚕」のことなのかもしれませんね。あくまで想像ですが…。
もう少し進むと境内に立派な石橋がかかっています。
山形百八地蔵尊の第二十三番霊場
石橋を渡ってすぐ左側には山形百八地蔵尊の第二十三番霊場である延命地蔵のお堂があります。
山形県の内陸部である山形、村山、天童、寒河江、最上、尾花沢、東根、新庄などの最上地域や村山地域の地蔵菩薩巡拝霊場の一つです。
橋の右手側には立派な鐘楼が見えます。
光禅寺本堂
本堂正面。派手な装飾はなく、厳かな印象です。
それでも正面には見事な龍の彫刻がありました。
両脇を支える柱の下部分には何故か90度傾けられた最上家の家紋が。何か意味があるんでしょうね。
光禅寺庭園
本堂の左手側から裏手に進むと「光禅寺庭園」の入り口が見えてきます。
江戸時代初期の作といわれる遠州流の庭園で、その広さは約900坪。山形市の名勝に指定されています。
正確な作庭年や作者は不明ですが、山形県内では最も古い庭園の一つとされています。
最上義光公墓所
光禅寺庭園からさらに先に進むと最上義光公の墓所が見えてきます。
ここには義光公の他に最上家12代家親公、13代義俊公の墓所となっており、義光公の死の際に後を追い殉死した寒河江肥前守、寒河江十兵衛、長岡但馬守、山家河内守の4家臣の墓も存在します。
まとめ
戦国大名、最上義光の手腕によって山形藩は57万石という江戸幕府でも有数の大藩へと成長しました。しかし、義光の死後わずか9年後に起きた家臣を巻き込んだ後継者争い、最上騒動によって全領地召し上げという憂き目にあってしまいます。
まさに栄枯盛衰といった感じですが、その力が強大だったことは霞城と呼ばれた山形城からも見てとれます。
山形城跡や最上義光歴史館を訪れた際は、是非光禅寺にも足を運んでみてください。
Information
- 名 称:光禅寺
- 住 所:〒990-2492 山形県山形市鉄砲町2丁目5−7
- 電話番号:023-622-7796
- URL:最上義光歴史館