
存在感のある石仏が立ち並ぶ不思議な公園|盛岡市「らかん児童公園」の歴史遺産【岩手県】
目次
盛岡市の総鎮守「盛岡八幡宮」。その正面入口前を南北に延びる宮古街道を南に数分歩くと、左手に「らかん児童公園」が見えてきます。
一見するとごく普通の「閑静な住宅街に佇む遊具が少なめな緑地帯」のように見えますが、実はここはよそでは滅多に見ることができないような不思議な光景が広がっている公園なんです。
公園を囲むように立ち並ぶ石仏群

「らかん児童公園」は東西に長い長方形に近い形をした公園で、この東側半分の区画に、まるでその敷地を取り囲むような配置で巨大な石仏群が鎮座しています。

何も知らずに脇を通った人は10人中10人が思わず二度見してしまうであろうちょっと異様な光景。少なくとも「児童公園」と呼ばれる空間には似つかわしくない石仏たち。その答えは公園内の案内板に記されていました。
かつて存在した寺院の跡地に残された石仏たち

案内板によるとかつてこの地には宗龍寺(そうりゅうじ)という寺院が存在し、この石仏群がある場所はその寺院の境内にあたる場所だったとのこと。
度重なる飢饉の犠牲者を供養する為に建立された石仏群
江戸時代、日本全国で度重なる食糧危機(飢饉)が発生していました。
南部藩領であった盛岡でも「南部藩の四大飢饉」といわれる元禄、宝暦、天明、天保の大凶作が発生し、未曽有の食糧危機による大量の餓死者が出ていました。
そこで宗龍寺の本寺にあたる祇蛇寺(ぎだじ)の住職だった天然和尚(後の宗龍寺三世)は、この犠牲者の供養のために石仏の建立を発願し、南部領内各所からの供養喜捨(お布施)を集め工事に着手します。
石仏は1837年(天保8年)から1849年(嘉永2年)の約13年の年月をかけてついに完成。しかしその頃には天然和尚は既に没し、弟子であった泰恩和尚(宗龍寺四世)が竣工を見守ったとされています。
火災で堂宇が焼失し、石仏群のみが現代まで受け継がれる
明治維新後、宗龍寺は本寺である祇蛇寺に合併され程なくして廃寺となります。そして1884年(明治17年)に発生した大火によって堂宇も焼け落ち、この地には21体の石仏が残るのみとなりました。
それから月日が経ち、宗龍寺の跡地は1965年(昭和40年)に石像を含めて盛岡市に寄付され、「らかん児童公園」として整備されて現在に至ります。
5体の如来像と16体の羅漢像で構成される石仏群

「らかん児童公園」の石仏は、「五智如来像」5体に「十六羅漢像」16体を含む合計21体。

しかし一般に知られる五智如来である大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就(釈迦と同一視される)とは構成が違っていて、
- 大日如来(だいにちにょらい)
- 多宝如来(たほうにょらい)
- 釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)
- 阿弥陀如来(あみだにょらい)
- 阿閦如来(あしゅくにょらい)
であると解説版に記載されています。
十六羅漢はそれぞれ
- 賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ)
- 迦諾迦伐蹉(かなかばっさ)
- 迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだじゃ)
- 蘇頻陀(すびんだ)
- 諾距羅(なこら)
- 跋陀羅(ばだら)
- 迦理迦(かりか)
- 伐闍羅弗多羅(ばじゃらほたら)
- 戍博迦(じゅばか)
- 半託迦(はんたか)
- 囉怙羅(らごら)
- 那迦犀那(なかさいな)
- 因掲陀(いんがだ)
- 伐那婆斯(ばなばす)
- 阿氏多(あじた)
- 注荼半託迦(ちゅだはんたか)
という、「この世に住し人々を苦しみや困難から救う役割をもつ」といわれる16人の阿羅漢で構成されています。
ただし石仏には明確な刻銘がない為、どれがどの阿羅漢かは所持品等から推定している…との記載もありました。



盛岡市の有形文化財にも指定されており、宗教的・歴史的価値が極めて高い遺産です。
まとめ
児童公園という生活空間に21体の石仏群という歴史遺産が混在している「らかん児童公園」。
盛岡八幡宮からほど近い位置にあるので少し足を延ばしてみるのもいいかもしれません。他ではなかなか見ることができない不思議な光景を見ることができると思います!
らかん児童公園<Information>
- 名 称:らかん児童公園
- 住 所:〒020-0822 岩手県盛岡市茶畑2丁目1−26
- 電話番号:ー
- 公式URL:盛岡市公式HP – 石造十六羅漢





















