【青森・岩手】一戸から九戸まで「戸のつく地名」の謎とは?旧南部領に点在する数字の地名の由来を探る!
目次
青森県の三八上北地方から岩手県北部にかけての地域は、かつて糠部(ぬかのぶ)と呼ばれた広大な南部藩領でした。
この地域には一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)まで、数字でナンバリングされた「戸(へ)」のつく地名があります。
他の地方には見られないこれらの「戸」は、現在まで四戸(しのへ)を除いて市町村名に残されていますが、その由来についてはさまざまな説があり、本当のことはよくわかっていません。 この記事では「戸のつく地名」の由来を示すさまざまな説をご紹介します。
かつての南部領に点在する「戸(へ)」の付く地名
これらの地名は2024年6月現在、青森県と岩手県の市町村名として残されています。
岩手県に一戸町、二戸(にのへ)市、九戸村があり、青森県には三戸(さんのへ)町、五戸(ごのへ)町、六戸(ろくのへ)町、七戸(しちのへ)町、そして八戸(はちのへ)市があります。
この中で四戸(しのへ)だけが市町村としては残っておらず、その所在地がどこであったのかについては諸説あってはっきりわかっていません。
南部氏の中に四戸姓を名のる一族があり、その子孫たちの居城がある地域を「四戸」とする説がありますが、いずれも確証はありません。
一戸から九戸が一列ではないのはなぜ?
一戸から七戸までは奥州街道に沿う形で南から北に向けて各戸が数字順に並んでいますが、七戸の次の八戸はそこから南東に向かった太平洋沿岸にある港湾都市です。
そして九戸は八戸からさらに南で一戸と二戸から折笠山を越えた東側の位置にありますが、これには「七戸から北は馬の飼育に適さなかった」とする説や、「蝦夷(えみし)を防ぐ柵が東側にも必要となり八戸と九戸が追加された」とする説などがあります。
「~戸」と呼ばれるようになった理由について、「これだ!」とされる定説はありませんが、諸説あるなかで次にご紹介する説が有力視されています。
南部氏の「九牧(くまき)」が由来とする説
この地域はかつて糠部(ぬかのぶ)と呼ばれ「一の部(いちのべ)」から「九の部(くのべ)」に分けられて、それぞれの部に馬牧場がある7つの村が在ったと伝えられています。
そのほかに、それに属さない周辺の村は東西南北の4門(かど)に分けられたとも言われています。
この「九ケ部四門」または「四門九戸」と呼ばれる制度を確立したのは鎌倉時代に甲斐から移り住んだ南部氏とされ、「南部九牧」と呼ばれた南部駒を産み出す牧場がその元であるとする説です。
九牧は南門に一戸と二戸、西門に三戸と四戸に五戸、北門は六戸と七戸、東門には八戸と九戸のように時計周りに数字が付けられたとも、南部氏が領地として支配した順番であるとも言われています。
甲斐から陸奥に移り住んだ南部氏
南部氏の発祥は甲斐の南部郷(山梨県)ですが、源頼朝から糠部郡を与えられた南部三郎光行(みつゆき)が現在の青森県三戸郡南部町に城を築いてこの地を治めたとされています。
陸奥で勢力を伸ばした光行には6人の息子があり、長男の行朝が庶子であったため一戸氏の祖となり、次男の実光が三戸南部氏を継ぎました。
さらに、三男の実長が八戸氏、四男の朝清が七戸氏、五男の宗清が四戸氏、六男の行連が九戸氏の祖となったと伝えられています。
「蝦夷」に対する防衛のために造られたとする説
南部氏によって統治される前の鎌倉時代の糠部には、すでに「戸の付く地名」が存在していたとも言われています。
弘仁年間(810年~-824年)に文屋綿麻呂(ふんやわたまろ)が蝦夷(えみし)征討のために都から遠征し、岩手県北部から青森県東部にかけて前進基地として柵が築造されて開拓が行われたというものです。
この説では柵に置かれた柵戸が「戸の地名」の由来とされ、七戸までは征討軍の北上に応じて南から柵戸がほぼ1日で行軍可能な間隔に配置されている事がその裏付けとされています。
柵戸の周辺が一つの郷を形成するようになり、それに番号を付けたことが「戸が付く地名」が登場するきっかけになったとされています。
奥州藤原氏が運営した牧場が起源とする説
日本最大の郡域である糠部郡は、12世紀半ばに平泉の藤原氏によって設置されたとする説があります。
藤原基衡(ふじわらもとひら)が毛越寺の本尊を造立した仏師・雲慶に「糠部駿馬五十疋を与えた」と「吾妻鏡」に記載されたのが、糠部の地名が公式に登場した最初であることがこの説の根拠です。
当時この地方の特産品である馬は「貢馬(くめ)」と呼ばれ年貢として納められていて、「戸」は、藤原氏がこれらの馬を管理するための行政組織だったと言われています。
糠部郡は岩手県二戸市、二戸郡、九戸郡と青森県の上北郡、三戸郡、八戸市、三沢市、十和田市を含む広大な地域で、藤原氏は一帯を「官営牧場」として九つに分けて運営していたと言われています。
糠部の駿馬(ぬかのぶのしゅんめ)とは?
糠部は平安の頃から名馬の産地として知られ、京の都などでも駿馬として珍重されていました。
それらの馬がどの「戸」で生まれたかを表す「戸立(へだち)」という言葉があり、「吾妻鏡」には源頼朝が後白河に馬を献上した際、後白河院が「戸立」に興味を示したと書かれています。
また、「源平盛衰記」にも元暦元年(1184年)の宇治川の合戦で先陣争いをした梶原景季(かじわらかげすえ)と佐々木高綱(ささきたかつな)の愛馬がそれぞれそれぞれ「三戸立」「七戸立」であったと記されています。
藤原氏以前の清原氏が起源とする説
糠部郡における「官営牧場」としての始まりが、奥州藤原氏が興る以前にこの地方に君臨していた、清原真衡(きよはらさねひら)の治世であったとする説です。
まとめ
青森県から岩手県にまたがる南部藩領にだけ残る「漢数字+戸(へ)」の地名は、その由来が定まっていない「ミステリースポット」として知られています。
最近では一戸から九戸までを順番にめぐって旅する「戸のつく地名」を巡礼する旅が、アニメの「聖地巡り」と同じような感覚でとらえられて注目されています。