【秋田県五城目町】500年以上続く朝市で賑わう五城目町。菅江真澄が描いた“乳房を持つケヤキ”も今なお残る

江戸時代は久保田藩の領地だった五城目

秋田市の北に位置する五城目町(ごじょうめまち)は、500年ほど前に始まった朝市で知られる人口約7,700人(2024年2月現在・秋田県の人口と世帯(月報)) の町です。

江戸時代には久保田藩(秋田藩)の領地で、もともとこの地が“五十目”と書いて“ごじゅうめ/いそめ”と呼ばれていたのを、江戸時代に誰かがかっこよく“五城目”という漢字を当てて書いたのが始まりといわれています。正式に五城目と呼ぶようになったのは1896年(明治29年)からです。その後1955年(昭和30年)に五十目集落(旧五城目町)を中心にして周辺にあった馬場目村(ばばめむら)、富津内村(ふつないむら)、内川村、大川村の5つの町村が合併し、現在の五城目町が誕生しました。


江戸以前は藤原氏、橘氏、安東氏(秋田氏)と領主が変遷

五城目町のあたりには縄文時代から人が暮らしており(中山遺跡)、奈良時代や平安時代の遺跡(中谷地[なかやち]遺跡/、岩野山[いわのやま]古墳群=秋田県指定史跡など)も発掘されています。

奈良時代以降の大和朝廷による律令時代に制定された国土の地域割りで、五城目エリアは秋田郡に編入され、平安時代には平泉(岩手県)の奥州藤原氏の支配下にありました。藤原氏が源頼朝によって滅ぼされ、鎌倉時代に突入すると、頼朝の命を受けた橘氏(たちばなうじ)が秋田郡の地頭(地域管理者)としてやってきます。

五城目では橘氏時代がしばらく続きましたが、室町時代になると橘氏が秋田郡を離れます。その頃津軽から南下して、出羽国(秋田県)の土崎湊(秋田市土崎港)に湊城を築いた安東氏が勢力を伸ばして来ます。


陸奥国出身の安東氏が秋田郡を支配

安東氏(安藤氏)は、前九年の役(前九年合戦/1051年~1062年)で大和朝廷(京都)によって滅ぼされた陸奥国(岩手県)に拠点を置いていた安倍氏が、西に逃れて藤崎(青森県藤崎町)に藤崎城を築き安藤氏(後に安東氏)を興したのが起源とされている豪族です。その後力をつけ勢力範囲を広げ、十三湊(とさみなと/青森県五所川原市)に拠点を移し、大いに栄えました。

安東氏は2派に分かれて領地を広げていきます。南に伸ばした派は土崎湊に城を構えたことから“湊安東氏”とも呼ばれています。一方東に侵攻した一派は、順風満帆とは行かず、陸奥国の東部(岩手県など)の力を持っていた南部氏に敗れ、一旦は蝦夷地(北海道)に逃れます。1400年代半ばに再び陸奥国に戻り、檜山(能代市檜山)に城を築き(檜山城/檜山城跡は国指定史跡)勢力を盛り返します。“檜山安東氏”と呼ばれる一派は、湊安東氏の力添えもあって、徐々に南に進出し、戦国時代後半には五城目あたりも一部勢力範囲に入れたといわれています。


戦国時代末期に安東氏の内輪もめ“湊合戦”に巻き込まれる

檜山安東氏と湊安東氏は仲が良いわけではなく、たびたび内部抗争を起こしていたようで、1520年代後半の戦国時代には、安東氏同士の戦い“湊合戦”にまで発展してしまいます。この争いは檜山安東氏が優勢で、結局両家の統合が実施され丸く収まりました。統合された安東氏は秋田氏と名称を変え、五城目を含む秋田郡の支配者となりました。 秋田郡を治めていた秋田氏(旧)安東氏)ですが、江戸時代になり1602年に常陸国(茨城県)から移動を命じられた佐竹氏と入れ替わりで5万石大名として常陸国へ移ります。常陸国で40年ほど過ごし、1645年には磐城(福島県)の三春藩(福島県三春町)に5万5,000石で移封(いほう/配置転換)し、幕末まで三春藩主を務めました。


五城目町には多くの豪族や安東氏の家臣たちが築いた城跡が残る

五城目町を構成する旧町村には、安東氏が支配する以前から小さな豪族が存在し、城(館)を築いていました。安東氏が入ってからも安東氏の家臣たちが城を築いており、記録にあるだけでも馬場目城、山内城、猿田館、富田城、大川城、浦城、岡本城、砂沢城、押切城、鬼王館の10城(館)にもなります。場所は特定できていますがその詳細についてはほとんど分かっていません。

馬場目城

馬場目城(ばばめじょう)は、五城目町の中央部を流れる馬場目川の上流部に位置し、城下町では500年ほど前から朝市が立っていました。湊合戦の後、秋田氏は五城目に砂沢城を築いたのですが、その際馬場目の朝市を砂沢城下(現在の五城目朝市)に移したといわれています。

馬場目城は、湊合戦の際城主が湊安東氏に属し、檜山安東氏に抵抗したため、戦後に廃城になっています。

砂沢城

砂沢城(すなさわじょう)は、戦国時代終わり頃秋田藩が馬場目城と浦城を廃する代わりに、五十目町(旧五城目町)に築城した城で、初代城主は秋田氏の家臣藤原内記秀盛です。現在の五城目町中心部を見下ろす小高い山(砂沢山標高約95m)の頂上にあった山城で、現在は城跡に天守閣風(模擬天守)に新築された「五城目町森林資料館」が建てられています。

砂沢城は秋田氏が常陸国へ移動した際に廃城になりました。

五城目城
砂沢城跡に一般的な天守閣を模して建てられた五城目城(五城目町森林資料館) ©五城目町

<五城目城(五城目町森林資料館)>INFORMATON

  • 施設名称:五城目城(五城目町森林資料館)
  • 所在地:秋田県南秋田郡五城目町字兎品沢62-2
  • 電話番号:018-852-3110
  • 開館時間:
  • 4月1日~10月31日/9:00~17:00
  • 11月1日~11月30日/9:00~16:00
  • 入館料:無料
  • 休館日:12月 1日~ 3月31日:冬季休館
  • URL:五城目城(五城目町森林資料館)
  • 鉄道/奥羽本線八郎潟駅から五城目バスターミナル行き路線バスで約15分、終点下車徒歩約2分
  • 車/秋田自動車道五城目八郎潟ICから約15分

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500年以上地元に密着し賑わう五城目朝市

五城目朝市
生活市として地元に密着する五城目朝市 ©五城目町

五城目朝市は、五城目町内にある馬場目地区、馬場目城下で1400年代末頃始まったといわれている朝市が、馬場目城の廃城とともに、同時期に五十目(五城目)に築城された砂沢城下に移され、現在まで続いている朝市です。観光要素の強い高山(岐阜県高山市)や勝浦(千葉県勝浦市)と違って、生活市として地元の人たちになくてはならない市で、毎月2・5・7・0の付く日に開かれるいわゆる十二歳市の形態を取っています。

<五城目朝市>INFORMATON

  • 施設名称:五城目朝市
  • 所在地:秋田県南秋田郡五城目町下タ町通り(通称:朝市通り)
  • 電話番号:018-852-5222(五城目町役場商工振興課商工振興係)
  • 開催日:毎月2、5、7、0の付く日および臨時市3回開催(5月4日「祭市」、8月13日「盆市」、12月31日「歳の市」)
  • 開催時間:7:00~12:00頃
  • イベント:山菜まつり(5月中旬)、市神祭(6月中旬)、「みずたたき」まつり(7月中旬)、きのこまつり(10月中旬)、あったか鍋まつり(2月中旬)
  • URL:五城目朝市
  • アクセス:
    • 鉄道/奥羽本線八郎潟駅から五城目バスターミナル行き路線バスで約15分、終点下車徒歩約2分
    • 車/秋田自動車道五城目八郎潟ICから約5分

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菅江真澄の著書に残された江戸時代の五城目

江戸時代の五城目エリアは、久保田藩佐竹氏の支配下になり、明治維新まで続きます。江戸時代はあまり大きな事件もなく、人々は平穏に過ごしていました。江戸時代後期の紀行家で秋田地方をくまなく歩いて紀行文とともに多くの図絵を残した菅江真澄(すがえますみ/1754年~1829年)『菅江真澄遊覧記』(全89冊/国指定重要文化財)にある「ひなの遊び(夷舎奴安装婢)」には、五城目の風景や民俗芸能、宝物などがその解説とともに図絵が描かれています。

野田のケヤキ
野田のケヤキ 「ひなの遊び」 菅井真澄1809年 ©秋田県立博物館(写本)

真澄の生きた江戸時代とは220年もの長い時がたっていますが、彼の目に映ったいくつかの風景や道具が今でも残っています。


“母乳の神”として親しまれている「野田のケヤキ」

野田のケヤキ(現在) ©五城目町

野田のケヤキは、五城目町森山地区八幡神社に現存するケヤキで、幹に付いている2つのこぶが人の乳房のような姿をしていることから、“母乳の神”として親しまれています。樹齢は約1,000年といわれ、現在の樹高は約21m、最大幹回り6.5mの大木です。真澄が“乳房槻(つき/ケヤキの古名)”として描いてから220年あまり、そのままの姿で人々を見守ってきました。野田のケヤキは五城目町の天然記念物です。

<野田のケヤキ/八幡神社>INFORMATON

  • 施設名称:野田のケヤキ/八幡神社
  • 住所:秋田県南秋田郡五城目町野田字合野109
  • 電話番号:018-852-4411(五城目町教育委員会 生涯学習課)
  • 境内散策自由
  • アクセス:
    • 鉄道/奥羽本線八郎潟駅から五城目バスターミナル行き路線バスで約15分、磯ノ目バス停下車徒歩で約25分
    • 車/秋田自動車道五城目八郎潟ICから約3分

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真澄も描いた古くから伝承されている「番楽」と「番楽面」

五城目町の番楽
後継者が少なく存続が危ぶまれている五城目町の番楽 ©五城目町

番楽(ばんがく)とは、秋田県や山形県の各地に伝わる神楽舞の一種です。神楽舞は、天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまった天照大神(あまてらすおおみかみ)を呼び出すために天鈿女命(あめのうずめのみこと)が踊った舞が発祥といわれていて、それが全国各地にさまざまな形で伝わりました

ひなの遊び 番楽面
菅井真澄が描いた番楽面 「ひなの遊び」1809年より ©秋田県立博物館(写本)

番楽山伏(やまぶし)の舞として独自に発展し、民俗芸能として伝承されてきました。本来は山伏たちが面を着けて人々の家を回って舞ったものなのですが、いつの頃からかは分かりませんが村人たちが舞うようになりました。五城目には山内、中村、西野、恋地4つの集落に伝承されている番楽がありますが、真澄が1800年初め頃に五城目に立ち寄った際に山内集落の番楽を見て、その舞の様子や番楽面を図絵に残しました。

番楽面
菅江真澄が描いた図絵にそっくりの現存する番楽面 ©五城目町

<五城目番楽競演会/五城目神明社神楽殿>INFORMATON

  • 施設名称:五城目番楽競演会/五城目神明社神楽殿
  • 所在地:秋田県南秋田郡五城目町神明前115
  • 電話番号:018-852-4411(五城目町教育委員会生涯学習課生涯学習振興係)
  • 開催日:5月第3日曜日の前日19:00~
  • アクセス:
    • 鉄道/奥羽本線八郎潟駅から五城目バスターミナル行き路線バスで約15分、磯ノ目バス停下車徒歩で約8分
    • 車/秋田自動車道五城目八郎潟ICから約5分

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菅江真澄が描いた板碑は鎌倉時代から存在

板碑
板碑 ©五城目町

板碑(いたび)とは、石を板状に加工した供養塔の一種で、主に鎌倉時代から室町時代に作られたものです。板碑は全国に数多く残されていますが、五城目周辺にもいくつか残されており、真澄の図画にも描かれています。

板碑
真澄の描いた実相院(井川町)の板碑。(上の写真の板碑とは別のものです)。「ひなの遊び」より ©秋田県立博物館(写本)

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