【秋田県男鹿市】男鹿半島の鬼たち-ナマハゲは何故刃物を持って人々をいましめるのか-ナマハゲは神様って本当??-
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男鹿(おが)と聞くとまず思い浮かぶのが“ナマハゲ”です。毎年大晦日の晩に、恐ろしい顔のお面をかぶり、ワラ製の衣装を着た鬼のような人たちが、「怠け者はいねが。泣く子はいねが」と叫び、家々を訪ねます。その手には出刃包丁と桶などを持っているのです。
ナマハゲは村人たちが冬に怠けないよう、そして新たな年の無病息災と五穀豊穣を祈る神様
一見怖いナマハゲですが、実は冬の農閑期に炬燵(こたつ)や囲炉裏(いろり)ばかりに当たっている怠け者をいさめ、無病息災、五穀豊穣を祈る神様といわれています。“ナマハゲ”の語源は<生身剥ぎ(なもみはぎ)>だといいます。生身剥ぎとは字面からみると“生身を剥がれる!”ということを想像してしまいますが、火に当たりすぎるとできる低温火傷の茶色いアザを<ナモミ>といって、それを剥ぐことだそうです。
一般的に知られているナマハゲ面は鬼のような姿、形をしています。大きな声を出し、手には出刃包丁を持っているため、こどもたちにとっては怖いものでしかありませんが、地域にとっては、訓戒と祝福を与える来訪神なのです。ナマハゲが訪れた家々では、料理やお酒を準備して丁重にもてなします。
それでは、ナマハゲの起こりは何だったのでしょう。
ナマハゲの起源には諸説。<漢の武帝説>もその1つ
中国の古代王朝漢(かん/日本の弥生時代末期頃)の7代目皇帝武帝(ぶてい)が、不老長寿の薬草を求めて5匹のコウモリを連れて日本海を渡り男鹿にやってきました。コウモリは鬼に姿を変え、武帝に仕えていたのですが、その鬼がナマハゲの起源だというものです。
ほかにもナマハゲの起源としては<男鹿の山中で修行していた修験者(しゅげんしゃ)>説、<昔から棲んでいた山の神>説などいくつかの伝承があるのですが、いずれも確証はありません。
江戸時代の紀行家、菅江真澄描いたナマハゲ
ナマハゲは男鹿地方の各集落で長い間行われてきた伝統行事なのですが、いつ頃始まったのかは分かっていません。ナマハゲが記録されたのは、江戸時代の1811年1月15日に男鹿を旅していた紀行家、菅江真澄が図絵とともに記したものが最古のようです。
図絵に付けられた文章には、当時のナマハゲ行事の様子が書かれています。鬼のような表情の面と、口をすぼめてひょっとこのような面をかぶった若者たちが正月の15日(現在は大晦日ですが、当時は1月15日の小正月行事でした)の夜、集落の家々を訪ねます。こどもたちはナマハゲが来たといって隠れています。今と同じですね。「泣く子はいねか~」と大声で叫んでいたのかは分かっていません。
真山神社の境内にある「なまはげ館」には、実際に大晦日のナマハゲ行事に使われているものも含め約60地区150種類以上のナマハゲ面が飾られていて、その表情の豊かさに驚かされます。
自分がナマハゲに変身して写真が撮れるコーナーが人気です。
大雪の中で行われる「なまはげ柴灯まつり」
「なまはげ館」に隣接する「男鹿真山伝承館」では、年中ナマハゲ行事の再現を体験できます。また、毎年2月第2金・土・日曜日には、真山神社境内で神事「柴灯(せど)祭」とナマハゲ行事を融合させた観光行事「なまはげ柴灯(せど)まつり」が開催されます。
雪が積もる中、神社境内に炊き上げられた柴灯の下、真山神社に伝わる厳かな神事はとても幻想的です。対照的にナマハゲたちの荒々しい所作は大迫力。勇壮な太鼓は体中に響き渡ります。
『男鹿のナマハゲ』は国指定重要無形民俗文化財であるとともに、「来訪神:仮面・仮装の神々」の1つとしてユネスコ無形文化遺産代表一覧表に記載されています。
Information
- 施設名称:真山神社/男鹿真山伝承館/なまはげ館
- 所在地:秋田県男鹿市北浦真山字水喰沢97
- 電話番号:0185-22-5050
- URL:男鹿真山伝承館
- アクセス:
- 公共交通機関/JR男鹿線男鹿駅から男鹿半島あいのりタクシー「なまはげシャトル」で約40分
- 車/秋田自動車道昭和男鹿半島ICから約40分
- 施設名称:「男鹿真山伝承館」
- 入館料:一般 770円、小中高生 550円 2館共通券/一般 1100円、小中学生 660円
- ナマハゲ習俗学習講座(ナマハゲ体験):
- 4月~11月/9:00~16:30(所要時間 約20分)
- 12月~3月/9:30~15:30(1月1日~2日は9:00~15:00)
- 休館日:無休
- 施設名称:「なまはげ館」
- 入館料:一般 660円、小中高校生 330円、2館共通券/一般 1100円、小中高生 660円
- 開園時間:8:30~17:00
- 休館日:無休
- 行事名称:「なまはげ柴灯まつり」
- 開催日:2月第2金・土・日曜日
- 開催場所:真山神社境内
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男鹿に伝わる昔ばなし「九百九十九段の石段」伝説
武帝に仕える5人の鬼たちは、正月の15日に1日だけ休みをもらっていたのだそうです。その日、彼らは里におりて作物や家畜など略奪し、村の娘にも乱暴するといった悪行を繰り返していました。
困った村人は一計を案じます。「一番鶏が鳴くまでに、里から本山の中腹まで、1000段の石段を造ってみろ。もし出来たら毎年1人ずつ娘を差し出そう。それができなかったら二度と里に下りてくるな」と賭けをしたのです。簡単なことだと考えた鬼たちは、喜んで石をつみあげていきます。朝前には999段に達したのですが、そこで村人が頼んでいた鶏の鳴き声がうまい天邪鬼(あまのじゃく)が<コケコッコー>と鶏の鳴き真似をしたのです。鬼たちは朝が来たと勘違いし、賭に負けたと思い二度と里へは降りてこなかったそうです。
鬼たちが騙されたことに気がつき、復讐してくることを怖れた村人たちは、鬼を神様として祭るようになり、これがナマハゲの起源となったという説もあります。
999段石段の伝説が残る国重要文化財赤神神社五社堂
鬼が造ったと伝わる999段の石段は、男鹿半島の南部海岸線にある門前という集落にあります。本山の麓、おが潮風街道(県道59号線)沿いにある赤神神社の拝殿近くからも上ることが出来、いかにも手造りといった段差がバラバラで不揃いの石段が999段続きます。
石段を上りきると現れるのが、5つの社(やしろ)が並ぶ「五社堂(ごしゃどう)」です。現在の建物は、江戸時代の1709年に久保田藩主佐竹義格(さたけよしさだ)が建てたもので、大変貴重な江戸時代の寺社建築として国の重要文化財に指定されています。
「五社堂」の5つの社は左から[十禅師堂(じゅうぜんしどう)][八王子堂(はちおうじどう)][赤神権現堂(あかがみごんげんどう)][客人権現堂(まろうどごんげんどう)][三の宮堂(さんのみやどう)]です。5つの社には、5体の鬼(夫婦と3人のこども)がまつられているといわれています。また、[赤神権現堂]堂内の厨子(ずし/仏像や位牌などの大切なものを収める箱)は、室町時代の作とされ、国重要文化財です。
赤神神社は、並んでそびえ真山(しんざん/567m)、本山(ほんざん/715m)、毛無山(けなしやま/645m)の本山中腹(標高180m)に鎮座する神社です。創建は平安時代の860年、日積寺(にっしゃくじ)という寺院だったと伝わっています。男鹿の山々では平安時代には山に入って修行する修験道(しゅげんどう)が行われていて日積寺はその中心的な寺院でした。平安時代から江戸時代までは、寺院の中に神社の神様もまつられている神仏習合(しんぶつしゅうごう)の時代で、明治時代になって、寺院と神社の同居は禁止され(神仏分離政策)たため、日積寺は廃寺となり、その後は赤神神社と名乗るようになりました。しかし、本殿は寺院時代に建てられた「五社堂」がそのまま使用されていて、名前は神社なのに、寺院のお堂が建ち、仏像も鎮座しています。
「五社堂」には平安時代の作と考えられている木造聖観音菩薩立像(もくぞうしょうかんおんぼさつりゅぞう・秋田県指定文化財)と江戸時代前期の仏師円空の作による木造十一面観世音菩薩立像(もくぞうじゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう・秋田県指定文化財)の2体が安置されています。
修験道の最盛期には、久保田藩の庇護もあって本山には日積寺を中心に9か所の寺院と修験者の宿である宿坊が48か所あったといわれています。しかし、明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく/仏教を廃止する政策)によりほとんどの寺院が廃寺となってしまい、残ったのは日積寺から名前を変えた赤神神社五社堂と長楽寺のみです。
Information
- 施設名称:赤神神社五社堂・九百九十九段の石段
- 所在地:秋田県男鹿市船川港本山門前字祓川35 (赤神神社)木
- 電話番号:0185-24-9220(男鹿市観光文化スポーツ部 観光課)
- URL:赤神神社五社堂・九百九十九段の石段
- アクセス:
- 公共交通機関/JR男鹿線男鹿駅から男鹿市バス男鹿南線で門前駐車場バス停下車
- 車/秋田自動車道昭和男鹿半島ICより約40分