古来より人々の暮らしに寄り添った「秋田杉」その所以と秘密に迫る【秋田県】

日本の森林面積は国土の67%にもなります。秋田県は72%と平均を上回る森林率で、世界遺産の<白神山地(しらがみさんち/秋田県・青森県)>のブナを中心とする広葉樹林と<秋田杉>を中心とする針葉樹林がよく知られています。


スギは日本固有の樹木

スギ(杉)は北海道南部から屋久島(鹿児島県)あたりまで、数多く見かける樹木です。ところでスギは日本特有の木だと知っていましたか?ヒノキ科スギ亜科スギ属に分類され、スギ属は日本のスギだけ(固有種)です。

あれ?と思う方がいるかもしれませんね。”ヒマラヤスギ”や“レバノンスギ”なんていうもの身近なスギの木として知られています。ただ、この木たちはスギに似ているので日本では〇〇スギと名付けられただけで、実はマツ科の植物なのです。

中国にはスギの林があり、建築資材などに使われています。しかし、このスギは数百年前に日本から持ち込まれたもので、非常に役に立つ木だったので広く栽培されるようになったのです。今では原生林ぽく林が広がっているところもありますが、すべて人工林で天然スギは1本もありません。


有用な樹木として古くからさまざまに利用されてきたスギ

スギはいつ頃から生えていた植物なのでしょう。現在分かっているのは、秋田県、岩手県、山形県などで見つかった530万年前(中新生後期)の化石で、それ以前からあったのではないかと考えられています。しかし、日本列島が大陸から離れたのがおよそ2,000万年前なので、それ以前の大陸と陸続きだった時代にはなかった植物なんです。

秋田杉の年輪 ©あきた森づくりサポートセンター

スギは<柔らかいので加工が簡単><軽量で扱いやすい><耐久性があり、湿気や腐食に強い><強度も十分に備えている><天然の防虫・防腐作用を持っており、虫が付きにくい><美しい木目と香りでリラックス効果が高い><調湿性に優れ、室内の湿度を適度に保つ>などの特長を備えています。そのため、古くから建材や家具、棚(フェンス)、食器、樽などに使われていました。


秋田県で建物跡から秋田杉の柵や柱を発見

払田柵から出土した角材列 ©大仙市

秋田県では850年頃(平安時代初期)に、大和朝廷が東北地方の原住民だった蝦夷(えみし)を攻めるための最前線の砦・払田柵(ほったのさく/大仙市仙北町/国の史跡)の跡地から、外側の柵に使われたスギの角材が出土しています。

「払田柵跡」全景 ©大仙市

払田柵跡<Information>

  • 施設名称:払田柵跡
  • 所在地:秋田県大仙市払田仲谷地95
  • 電話番号:0187-63-8972(大仙市観光文化スポーツ部 文化財課)
  • 公開期間:4月下旬~11月中旬
  • 休館日:お盆期間、11月中旬~4月下旬
  • 開館時間:9:00~16:00(最終入館15::30)
  • 入館料:無料
  • URL:払田柵跡
  • アクセス
    • 公共交通機関/秋田新幹線・JR奥羽本線・JR田沢湖線大曲駅から路線バスで「埋蔵文化センター」バス停下車すぐ、またはタクシーで約15分
    • 車/秋田自動車道大曲ICから約20分

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平安時代中期の建物跡、胡桃館遺跡(くるみだていせき/北秋田市)でも、スギの柱や板材が見つかっています。

胡桃館遺跡から出土した杉板を使った建物の外壁。調査後埋め戻された ©北秋田市

胡桃館遺跡は、1961年(昭和36年)に行われた鷹巣中学校(北秋田市)のグランド整備中に偶然発見された遺跡で、その後の調査で915年に起きたとされる十和田湖火山の噴火による土石流により埋没した建物だと判明したのです。建物の屋根部分は土石流によって流されていましたが、屋根より下の部分は奇跡的に建ったままの姿で残っていました。胡桃館遺跡は北秋田市の史跡、スギ材を含む出土物の多くは国の重要文化財に指定されています。なお、遺跡は保護のため埋め戻してあり、また出土物の保管庫は一般公開していないため、見学することはできません。

胡桃館遺跡からの出土品。国の重要文化財に指定されている。収蔵庫は一般公開されていない ©北秋田市

胡桃館遺跡<Information>

  • 施設名称:胡桃館遺跡(非公開)
  • 所在地:秋田県北秋田市坊沢上野1
  • 電話番号:0186-62-6618(北秋田市教育委員会事務局 生涯学習課)
  • URL:胡桃館遺跡
  • アクセス
    • 公共交通機関/JR奥羽本線鷹ノ巣駅または秋田内陸縦貫鉄道鷹巣駅から徒歩で約15分、タクシーで約6分、または大館能代空港から車で約15分
    • 車/秋田自動車道大館能代空港ICから約15分

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豊臣秀吉が伏見城築城で秋田杉を使用

秋田杉を秋田周辺以外で使用し、有名にしたのは豊臣秀吉といわれています。秀吉は伏見城築城の際、城にふさわしい木材を探し出すように指示します。そこで最も気に入ったのが秋田杉でした。早速当時羽後国(秋田県・山形県)の北部(ほぼ秋田県)を支配していた豪族・秋田氏(あっきたうじ)に命じて、秋田杉を京都に送るよう指示します。

秋田氏は、米代川沿いの地域で自生していた秋田杉を、斧やノコギリを使って伐採し、川を使って野代(能代)湊に集めました。能代湊からは日本海を大きな船で敦賀(福井県)まで運び、敦賀からは陸運や琵琶湖の船運を使って京都に届けたのです。

江戸時代の秋田杉伐採の様子。「伐木」秋田杣子造材之画 所蔵:秋田県立博物館

佐竹久保田藩は、藩の収入源として秋田杉に目を付ける

江戸時代に入って佐竹氏が秋田地方の藩主となりました。初代藩主の佐竹義宣(さたけよしのぶ/1570年~1633年)は、まず京都方面で人気になっていた秋田杉に目を付けます。1604年には他藩へ秋田杉の販売を始めたとの記録もあります。

義宣の秋田杉開発には、家老渋江政光(しぶえまさみつ/1574年~1614年)の「国の宝は山なり、山の衰えはすなわち国の衰えなり」との考えが大きく寄与しています。義宣は政光の教えに従い、伐採と同時に森林資源の保護にも力を入れたのです。


江戸時代中期には伐採のしすぎで天然スギの林が荒廃、

菅井真澄が描いた七座山(ななくらさん/部分)。濃い緑でまっすぐに伸びるのが天然スギ。伐採された跡なのかまばらにしか描かれていない。菅江真澄「しげきやまもと」(1802年)
国立公文書館写本

その後、江戸幕府の繁栄とともに秋田杉は江戸でも大人気となり、その需要に追いつくため伐採することが優先されるようになってしまいます。秋田藩の財政は潤ったのですが、それに伴い藩の人口も増え続け、住宅や薪・炭など藩内での消費も増大しました。そのため1600年代後半には、人間が入れるような場所の天然スギはほとんど切り尽くされ、売れる商品は少なくなってしまいます。

久保田藩は、木材からの収入が減った分、米代川支流奥にある銀や銅、鉛などの鉱山開発に力を入れます。阿仁鉱山(あにこうざん/北秋田市)や太良鉱山(だいらこうざん/藤里町)などからの産出物は藩の財政には多大な貢献をしたのです。しかし、鉱山建設に伴う枠木や火力用の木材が大量に消費されることになってしまい、森林の荒廃はますます進み限界に達してしまいます。

久保田藩は危機感から、森林保護・育成の方針を打ち出しますが、スギが成長するまでには何十年とかかり、すぐには効果がありませんでした。秋田杉にとって闇の時代は1700年代後半まで続きます。


秋田杉を救った久保田藩9代目藩主佐竹義和

1785年8代目藩主佐竹義敦(よしあつ/1748年~1785年)が急死、跡を継いだのは当時わずか11歳だった佐竹義和(よしまさ/1775年~1815年)でした。秋田杉の荒廃ぶりを目の当たりにして、自分の時代ではなくても将来必ず国の宝になると、森林の荒れた原因を調べ植林の必要性を説きました。まず山林の台帳を作り伐採状況を把握し、住民が植林したスギの販売利益の7割を住民に戻す(それまでは住民・藩が折半)ことを決める(文化の改革)など、住民がすすんで植林するように仕向けたのです。

佐竹義和。「天樹院佐竹義和公」大久保鉄作著(大正5年)
所蔵:国立国会図書館

この森林改革には賀籐景林(かとうけいりん/1768年~1834年)という義和の家臣が大きな力を発揮しました。景林は、役人が普段足を踏み入れない山奥にまで出向き、藩内の山林をくまなく見回りました。その経験を元に改革案を立案し、彼らが植林したスギは250万本にまで達したのです。賀籐景林は<秋田美林>の基礎を確立した人物として「秋田杉の父」と呼ばれています。


佐竹義和は藩校の明徳館を創設し、菅江真澄に『菅江真澄遊覧記』の編纂を依頼

明徳館の図。明徳館は明治維新で廃校となり、久保田城(千秋公園)近くに「久保田藩黌明徳館址」という碑が立っている

義和は11歳で藩主となり、41歳で他界したのですが、その間に学問にも力を注ぎます。藩校の明徳館を創設し、個性を重んじる教育を主軸として、多くの人材を輩出しました。さらに郷土史家の菅江真澄(すがえますみ/1754年~1829年)に直接会って、久保田藩領地(出羽6郡)の地誌を編纂するように依頼し、後に明徳館に献呈された『菅江真澄遊覧記』として実を結びます。『菅江真澄遊覧記』はその後も明徳館で大切に保存され、紀行文はもちろんのこと当時の風景やしきたり、行事などを描いた色付きの図絵は、私たちが江戸時代を知る上で大変貴重な資料となっています。『菅江真澄遊覧記』は国指定重要文化財です。


明治時代以降も秋田杉の需要は高く、無謀な伐採が続く

義和を中心にその後も藩主たちが必死になって整備し、蘇らせた秋田杉ですが、明治維新以降は多くは国有林となって、国が管理することになります。明治以降も秋田杉の需要は高く、特に日清戦争(1894年~1985年)、日露戦争(1904年~1905年)、第1次世界大戦(1914年~1918年)と続いた時代に、日本の近代化が急速に進む中、江戸時代に植林され立派に成長した人工林を中心に大規模な伐採が続きました。

1945年にはアメリカを中心とする連合軍による大空襲により、多くの大都市が焼け野原と化したたため、終戦後はその復興に追われます。木材の需要はピークを迎え、秋田杉も天然スギはもちろんのこと、保安林として守られてきた森さえも伐採されてしまいます。跡地にはまたスギの植林が行われ、大規模なスギの人工林が誕生したのです。

昭和39年まで続いた米代川の筏(いかだ)流し。最後の筏流し ©東北森林管理局

20世紀末になって国がようやく秋田杉の保護に乗りだす

木材の需要は40~50年は続くと判断した政府は、成長の早いスギの植林を全国の山林で実施します。その際には広葉樹は成長が遅いという理由で、カシやナラなどの広葉樹の広がる雑木林までも伐採され、スギ林へ変貌していったのです。しかし、国内産の木材の需要が高かった時はよかったのですが、1990年代に入ると木材の輸入自由化が実施され、スギの需要は減少。さらには価格の暴落と最悪の結果が訪れます。そのため、林業に携わる人が激減、植林から40年たち立派に成長したスギ林の多くは、手入れされることなく、放置されてしまったのです(それが今の花粉症につながっています)。

そんな中でも秋田杉の需要は他と比べるとまだ高く、特に天然杉は優先して商品化されていました。1997年になって、これは問題だとようやく気づいた政府は天然杉の保護に乗り出します。まずは天然杉の伐採計画を中止し、保護優先の管理へ移行しました。現在では秋田杉に関しては、原則として天然杉の伐採は禁止され、明治期以前に植林された樹齢80~100年の人工林のみが流通するといった状況になっています。


嬉しいお知らせ。秋田県で花粉が半分以下のスギの新種を開発

一方で、花粉を出さないスギの研究も進み始めています。

2019年に秋田県では花粉飛散量が半分以下の新品種2種が開発されました。開発したのは秋田県林業研究研修センター資源利用部で、2025年(令和7年)より種の販売が開始されます。

東北森林管理局でも花粉の少ないスギの植林を進めており、花粉のないスギの研究も行われています。数十年後にはスギの花粉症に悩まされない時代が来るかもしれません。

秋田県と青森県の県境にある矢立峠(大館市)。秋田杉 の人工林 ©旅東北

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