
【後編】出羽国の国人連合「最上八楯(もがみやつだて)」とは?|八楯の協力者と天正最上の乱の契機
目次
最上八楯に合力したその他の勢力
最上八楯と呼ばれる出羽の国人連合について概要を見てきましたが、最上義守・伊達輝宗に合力した勢力はこれだけではありませんでした。

八楯に協力する立場をとったその他の勢力もあり、単に最上氏の内紛というよりは出羽から陸奥を巻き込んだ戦争といっても過言ではない様相を呈していたのです。
この項では、八楯に合力した代表的な勢力について概観してみることにしましょう。
細川直元(ほそかわなおもと)
まず、出羽国小国城主・細川直元が挙げられます。小国城は現在の最上郡最上町本城に所在した山城で、麓には「表小路」「侍屋敷」「庄屋屋敷」などの小字名が残ることから、一種の城下町のような状態を形成していたと考えられます。
直元は娘を最上八楯の盟主・天童頼澄(頼久)に嫁がせており、そのことからも八楯の友軍ともいえる勢力でした。
その姓から想起されるように室町幕府三管領の一家、細川氏に通じる血筋とされますが、正確にはどの系統に属するのかわかっていません。
早い段階から最上義光とは対立していた細川直元ですが、より決定的な事件が起こります。
天正九年(1581年)、当地での影響を強めていた最上義光は現在の尾花沢市である天童が原で馬揃えを開催します。これはいわゆる閲兵式であり、そこに参加することは義光の配下であると示すのと同義といえるでしょう。
直元はこの馬揃えへの参加を拒否したことで攻撃を受け、義光配下の蔵増光忠(くらぞうあきただ)率いる3,500の兵が小国へと侵攻する「万騎が原の戦い」が勃発します。
細川直元の手勢はわずかに350。しかし直元は籠城ではなく、平野での決戦を選びました。当然ながら十倍もの兵力差を埋めることは叶わず、直元の細川氏は滅亡。
この戦勝によって最上義光の軍は日本海方面への水運ルートを掌握し、影響範囲の拡大に成功します。この戦功によって蔵増光忠は自身が攻略した小国城を与えられ、戦巧者の名をいよいよ高めたといいます。
最上義光が最上八楯の攻略に苦戦したことは繰り返し述べてきたことですが、このようにして八楯を支える周辺勢力を切り崩していくことも重要な戦略でした。
細川直元の敗北は、そうした軍略の証ともいえるでしょう。
小国城跡<Information>
- 名 称:小国城跡(岩部楯跡)
- 住 所:〒999-6104 山形県最上郡最上町本城
- 電話番号:ー
- 公式URL:ー
佛向寺(ぶっこうじ)
現在の天童市に所在する浄土宗の寺院「佛向寺」も、最上八楯に合力した勢力でした。

お寺がなぜ戦国の紛争に協力するのかと思われるかもしれませんが、当時は寺院も僧兵などの武力を有することが珍しくありませんでした。
天童氏の源流である里見氏の庇護のもと勢力を拡大した佛向寺は、やがて村山地方で二十四ヶ寺もの末寺等を擁する大寺院へと成長します。
立地的には天童氏の天童城の西側を守る形となり、当時の寺院のうちには城塞的な防御力を誇るケースも多かったことを伝えています。
天童氏が八楯の盟主として最上義光と対立した際には天童氏の側につき、その滅亡とともに佛向寺も堂宇が焼失したとされています。
つまりは攻撃対象として認識されていた証ともいえ、翻っては武装勢力としての寺院の強力さを示すものともいえるでしょう。
佛向寺<Information>
- 名 称:佛向寺
- 住 所:〒994-0032 山形県天童市小路1丁目8-16
- 電話番号:023-653-2276
- 公式URL:https://tendobukkouji.web.fc2.com/
上山(かみのやま)氏
現在の上山市に所在した上山城を本拠とする上山氏は、斯波氏の系譜に連なる天童氏から分かれた氏族です。

最上八楯に合力した時代の当主は上山満兼で、祖先の斯波氏が代々兵衛府の督や佐に補任されたことから、その唐名である「武衛」を姓として用いました。
そのため初めの名は「武衛義政」、後には「里見満兼」とも称しています。
満兼は最上義光の父・義守の妹を妻にしており、これも最上氏と直接の姻戚関係を構築していました。
義守の義理の息子にあたる伊達輝宗と連合して行動するなど最上義光を苦しめましたが、やがて調略によって重臣であった里見義近・民部父子に裏切られ敗死します。
これらのことからも、最上義光がいかに離間工作によって八楯とその支援勢力を内部から切り崩すことに腐心したかを推し量れるといえるでしょう。
上山城跡<Information>
- 名 称:上山城郷土資料館
- 住 所:〒999-3154 山形県上山市元城内3-7
- 電話番号:023-673-3660
- 公式URL:https://kaminoyama-castle.info/
東根(ひがしね)氏
東根氏は最上八楯の盟主であった天童氏の一門で、当時の当主は第七代・東根頼景。天童頼澄(頼久)の実弟です。

東根頼息の養子となって家督を継ぎ、東根城主として兄を支えていたのです。
最上義光の工作によって八楯が徐々に内部分裂していき、勇将・延沢満延の離反によって瓦解が決定的になったことは繰り返し述べてきた通りです。
しかし東根頼景は最後まで天童氏に寄り添って義光に抵抗し、最後にはわずか数十名の家臣たちとともに討ち死にしたと伝わります。
頼景の事績については正確にわかっていないことが多く、伝承も交錯している部分が見られます。しかしながら最後までその節を曲げることのなかった頼景は、同じく離反しなかった八楯構成員らと共にその精強さの記憶が語り継がれているといえます。
東根城跡<Information>
- 名 称:東根城跡
- 住 所:〒999-3783 山形県東根市本丸南1丁目1
- 電話番号:ー
- 公式URL:ー
「天正最上の乱」勃発の原因とは?
最上八楯という出羽の国人連合が誕生する契機となったのは、不安定な当地の治安と政治情勢によるものであると、大まかに総括することができるでしょう。
そのうち最上氏の内紛に縁戚である伊達氏が加わったことでより情勢が緊迫していったことを窺えますが、そもそも最上義守・義光父子の対立である「天正最上の乱」とはどういった経緯の紛争だったのでしょうか。
最上八楯がもっとも深く関わらざるを得なかったであろうこの戦いの原因を見ることで、本記事を締めくくるとしましょう。
義守・義光父子の対立原因に関する従来の伝承

最上義守・義光の実の親子の間に起った争いの原因は、従来の説だと端的に「家督争い」と説明されてきました。
すなわち元亀元年(1570年)、義守は嫡男の義光ではなく中野義時なる次男に家督を譲ろうとしたため、父子の間に小競り合いが起きたというものです。
この時には最上氏重臣・氏家定直が仲裁する形で和解し、家督を継いだ義光は山形城主に就任します。しかし新体制での方針に反発した国人衆らが、再び先代の義守を擁立して義光の放逐を企図。
そして天正二年(1574年)に義守は娘婿である伊達輝宗に援軍要請の書状を送り、輝宗が最上領内に派兵したことによって勃発したのが天正最上の乱であるとされてきました。
「中野義時」の存在の謎
ところが、家督争いの原因となった「中野義時」なる義守の次男は、実在が疑われる人物であることが指摘されているのです。
それというのも義時の名が初めて現れる文献『稽補出羽国風土略記』の成立は寛政四年(1792年)のことであり、事件から200年以上も経っています。
義光に弟がいた可能性までは否定されないものの、義守が義時可愛さに嫡男の義光と対立したという構図の信憑性を疑う声が出ています。
最上氏の系図や当時の伊達氏文献などに「中野」という名が登場する事実はあるものの、これが中野義時の実在を証明するものとは言い切れないため、中には天正最上の乱自体が今日伝わっているような形では存在していなかった可能性にまで疑義を呈する研究(※)もあります。
(※)長谷勘三郎「歴史館だよりNo.12/研究余滴5」最上義光歴史館
また、天正最上の乱とは家督争いではなく、家督を継いだ後の義光の統治に対する反発によって引き起こされた紛争であるといった説もあり、中野義時の名が当時の史料で確認できないことなどから創作であると考えるのも不自然ではないでしょう。
(粟野敏之「戦国大名最上氏の成立過程-元亀・天正初期の内訌をめぐって-」『史学論集』10号(駒澤大学、1980年))
おわりに
戦国史において東北地方の国人領主がどのように時代と向き合ったのか、けして広く知られてはいないでしょう。
しかしながら彼ら強力な地侍たちは常に趨勢を左右する鍵を握っていたといっても過言ではなく、その動向は大きな勢力を誇る戦国武将にとっても細心の注意を払うべき重大事でした。
歴史にifは禁物とされるものの、もし天運と時代の流れが微笑んだとしたら最上八楯の誰が歴史の表舞台に躍り出たとしても不思議はなかったかもしれません。
そうしたことに思いを馳せるのもまた、歴史の楽しさの一端ですね。
参考
- 米沢日報デジタル:「11 山形県河北町、東根市、村山市をめぐる戦国時代」




















