
【中編】出羽国の国人連合「最上八楯(もがみやつだて)」とは?|出羽国人連合・最上八楯のメンバー
目次
最上八楯を構成した代表的な国人たち
それではいよいよ、最上八楯の構成メンバーについて見ていきましょう。
天正最上の乱において彼らは最上義光の父である義守と、その義理の息子である伊達輝宗の連合勢力についたことは先述した通りです。
最終的には最上八楯は義光に敗北しますが、それは短期間で決着するような戦いではありませんでした。
義光といえども八楯の攻略は容易ではなく、父・義守を降した後も紛争は継続しました。純粋な武力行使のみならず、政略結婚や調略などを用いて八楯を内部分裂させながら制圧していったのです。
それほどまでに最上八楯は強力であり、在地の国人勢力がいかに精兵であったかが窺い知れるといえるでしょう。

また、国人である「地侍」という語感から古くからの土豪や半士半農の中世的な在地勢力がイメージされるかもしれませんが、最上八楯の構成氏族の中には、祖先を遡ると最上氏同様に高位の武家に発する者も少なくありませんでした。
つまりどの氏族が当地の王者として君臨していても不思議はない状況であったともいえ、東北戦国史の様相をさらに複雑にしている一因ともいえるでしょう。
それでは以下に、天正最上の乱に深く関わった最上八楯の、代表的なメンバーについて概観していきましょう。
天童頼澄(てんどうよりずみ)
最上八楯のうち中心的な役割を果たした天童頼澄(当初は頼久)は、永禄十一年(1568年)頃に天童氏第十六代当主にして天童城主・頼貞の子として生を受けました。

父の死没により弱冠十二歳にして党首の座を継いだ頼澄は、乱世の出羽における過酷な生存競争を宿命づけられていたといえるでしょう。
天童氏は河内源氏である源義重の子・義俊を始祖とする里見氏の庶流で、里見氏は南北朝時代に南朝方の武将として活躍した「新田義貞」ら新田氏にとっての宗家筋でもあります。
このように天童氏は、単に国人といっても名家の流れを汲む氏族でした。
頼澄の母は伊達氏重臣であった国分盛氏の娘であり、しかも姉妹の天童御前は最上義光に嫁していることから、伊達・最上両家は直接的な縁戚であったのです。
しかし最上一帯の勢力と伊達氏とが対立と融和を繰り返していたのはこれまで見てきた通りで、政略結婚による姻戚関係をもってしても充分な和平をもたらすには至りませんでした。
最上氏の内紛であり、義光とその父・義守が対立した天正二年(1574年)の「天正最上の乱」では、天童頼澄をはじめとした最上八楯は義守・伊達輝宗の連合に協力したことは既に述べた通りです。
しかし最上義光は内紛を制した後も頼澄ら八楯を攻略することはできず、天童御前の輿入れはそうした和睦の文脈の中で行われた政略だったといえるでしょう。
ところが天正十年(1582年)に天童御前が三男を出産後に逝去。天童氏と最上氏の和睦は解消され、義光は再び頼澄攻略に乗り出します。
拠点であった天童城の高い防御力や八楯の精強さもあいまって戦況は膠着しますが、やがて最上氏の離間作戦により八楯構成員の延沢満延が離反。このことを契機として天正十二年(1584年)十月、ついに天童城は陥落します。

頼澄は母方の実家である国分氏を頼って落ち延び、陸奥国人衆の秋保直盛のもとに身を寄せました。
やがて文禄年間(1592年~1596年)には伊達政宗より高位の家格で領地を賜り、政宗の叔父にあたる留守(伊達)政景の次男を養子に迎え、「天童重頼」として天童氏を継ぐこととなりました。
天童城跡<Information>
- 名 称:天童城跡
- 住 所:〒994-0000 山形県天童市大字天童字城山(舞鶴山 天童公園内)
- 電話番号:023-654-1111(天童市経済部商工観光課)
- 公式URL:天童市観光情報サイト – 天童公園(舞鶴山)
延沢満延(のべさわみつのぶ)
延沢満延は天文十三年(1544年)、出羽国野辺沢城主・延沢満重の子として生まれました。
延沢氏は領内に延沢銀山(のべさわぎんざん)を擁するなど強力な経済基盤を持っており、武力だけではなく経済力でも大きく最上八楯を支えた勢力だったと考えられます。
満延は剛勇無双で知られ、敵対していた最上義光も最終的には八楯から彼を引き離すべく策略を巡らせ、満延の離反を契機としてこの国人連合は瓦解しました。
このことから、盟主の天童氏に次いで実行部隊としての重要な役割を延沢氏が担っていたことが窺えるでしょう。
最上義光の離間作戦は伝統的な政略結婚で、娘である松尾姫を満延の子・又五郎の元に嫁がせます。満延は義光の配下につくことと引き換えに天童頼澄(頼久)の助命を嘆願したといい、単純な裏切りとはいえない複雑な政治的交渉がもたれたものと思われます。
その誓約通りに頼澄は追討されず落ち延びることができたのは前述した通りですが、まさしく延沢満延の存在が最上八楯のネックであったことを伺わせる事績です。
また、剛力の持ち主として語られる満延には面白い言い伝えがあります。
それは彼の母が天女であったというもので、父・満重はその助言に従って野辺沢城を築き、敵が接近すると霧が立ち込めて城を隠すことから「霧山城」の異名でも呼ばれるとされています。
さらに最上義光が満延の剛力を試そうと7~8名の配下とともに襲い掛かったところ一蹴され、満延は桜の樹にしがみついた義光をその木ごと引き抜いてしまったという豪快な伝説もあります。
神秘的な出生とどこかユーモラスな剛力伝説は、満延の勇士振りを今に伝える哀悼の記憶かのように思われてなりません。
延沢満延は天正十九年(1591年)三月十四日、最上義光に従って上った京の都で、病により客死しました。
延沢城跡<Information>
- 名 称:延沢城跡
- 住 所:〒999-4441 山形県尾花沢市延沢
- 電話番号:0237-22-1111(尾花沢市商工観光課)
- 公式URL:山形県公式観光サイト – 延沢城跡
飯田播磨守(いいだはりまのかみ)
飯田播磨守は生年不詳、元は現在の村山市本飯田を拠点とした国人領主で、名は「信兼」である可能性が指摘されています。
その本拠であった飯田館は南北約300m・東西約200mの丘陵地に立地し、最上義光の家臣となってからは二千石、『最上義光分限帳』という文献では七千石ともいわれる知行が記されています。
このことから飯田播磨守の領地は非常に豊かな生産力を持っていたことが窺え、最上八楯の構成員としても兵糧の供給能力などで大きく貢献したことを思わせます。
八楯瓦解後は最上義光の家臣となり、慶長五年(1600年)の出羽合戦に従軍。現在の東村山郡にあった畑谷城の救援に向かいますが、その途中で落城の知らせを受けます。
しかし播磨守は退却せず、落ち延びてきた領民を救出しつつ進行してくる上杉軍を食い止めて避難の時間を稼ぎ、壮絶な討ち死にを遂げました。
友軍の谷柏相模守は播磨守の戦死を目の当たりにし、捨て身で上杉軍に突撃。その首を取り返したという言い伝えもあることから、仲間からも深く慕われた厚い義侠の心をもった武人であったことが窺えます。
飯田館<Information>
- 飯田館の具体的な所在は不明。マップは村山市本飯田地区の領域です。
尾花沢藤左衛門(おばなざわとうざえもん)
尾花沢藤左衛門は現在の尾花沢市あたりを拠点としていた国人領主で、城跡と考えられる尾花沢小学校のある地域は「館」という字名が残っています。
尾花沢楯は山城ではなく平地に築かれた平城ではありますが、最上川の支流・丹入川に面した段丘の先端に立地しています。
最上八楯としては、これまでに述べてきた延沢満延の離反によって攻撃を受け、尾花沢楯が陥落して以降は廃城になったと考えられています。
城跡を示す遺構は正確には不明ながらも、後の世では代官所が設置されるなど優れた立地条件を満たしていたことの証ともいえるでしょう。
また、尾花沢は江戸期には五街道に加えての脇道の一つ「羽州街道」が通る交通の要衝として知られ、戦国時代にも村山・最上・新庄・大崎へとつながる交通の要衝でありました。
こうした陸路の結節点を掌握していたことが、尾花沢氏の強力なバックボーンであったことが窺えます。
尾花沢楯跡<Information>
- 名 称:尾花沢楯跡(尾花沢城・陣屋跡)
- 住 所:〒999-4232 山形県尾花沢市梺町3丁目3(現:尾花沢小学校)
- 電話番号:ー
- 公式URL:ー
楯岡因幡守(たておかいなばのかみ)
楯岡因幡守満英は現在の村山市に所在した楯岡城の城主で、元来は最上氏一門の血筋です。
楯岡氏の始祖は最上氏第三代当主・最上満直の四男・満国で、戦国時代に多くの一門が最上氏から離反した際に分家である楯岡氏も八楯に加わったと考えられています。
最上義光との抗争においては、やはり延沢満延が離れたことを契機として攻略されましたが、以降は満英の跡を継いだ七代目・満茂が最上氏に臣従し、後に秋田の由利本荘へと移り「本城氏」を名乗りました。
楯岡満英の詳しい事績はよくわかっていませんが、配下には居合術の開祖として名高い「林崎甚助重信」の父である「浅野数馬源重治」がいたといいます。このことから、剣術などの武芸錬磨に怠りのない武人肌の人物だったのではないかと想像が膨らみます。
満英自身は、天正八年(1580年)に最上義光らの攻撃を受けて敗北、自害しています。
楯岡城跡<Information>
- 名 称:楯岡城跡
- 住 所:〒995-0025 山形県村山市楯岡楯(東沢バラ公園)
- 電話番号:023-654-1111(天童市経済部商工観光課)
- 公式URL:山形県公式観光サイト – 楯岡城跡
長瀞左衛門尉(ながとろさえもんのじょう)
現在の東根市に所在した長瀞城の主、長瀞左衛門尉は詳しい事績は判っていないものの、やはり天正十二年(1584年)に最上八楯から延沢満延が離反した際に攻略されたと伝わっています。
この長瀞城は南北朝時代頃に在地の西根氏によって築城され、後に最上氏が領して四代目当主・最上満家が隠居のために利用したともいいます。

本格的に整備されたのは長瀞左衛門尉が敗北して最上義光が入城して以降のことといいますが、山城ではなく二重の水堀や土塁を巡らせた「方形輪郭式」と呼ばれる形式の平城です。
本来は四の丸まであったといいますが詳らかではなく、その遺構は残っていません。ただし現存する外堀だけでも一辺がおよそ200mに及び、往時は相当に大規模な拠点であったことを窺えるでしょう。
城というよりは防御性の居館といった雰囲気を感じさせ、ある種の政庁的拠点として機能したことも考えられます。
このような状況を鑑みると、最上八楯は単に強力な国人領主の連合体というだけではなく、バリエーション豊かな機能と役割を果たしうる集団が有機的に連携した結果といえるのではないでしょうか。
長瀞城跡<Information>
- 名 称:長瀞城跡
- 住 所:〒999-3771 山形県東根市宮崎4丁目
- 電話番号:ー
- 公式URL:ー
六田兵衛(ろくたひょうえ)
最上八楯の一角をなす六田兵衛の事績は、残念なことに詳しくわかっていません。
しかし現在の東根市六田には「楯ノ越」なる字名があり、兵衛が拠点とした六田楯が国道13号線に断ち切られるようにして所在するといいます。
今や遺構を確認することは困難ですが、六田楯のあった東根の地は戦略上重要な立地を示しています。
北は村山・尾花沢、南は天童、西は寒河江へと至る交通の要衝であり、有事には重大な防衛拠点としての役割を担うことが明確な地域です。
それだけに、殊の外精強な集団がこの地に根付いていたことを想像させます。
六田楯<Information>
- 六田楯の具体的な所在は不明。マップは東根市六田地区の領域です。
成生伯耆守(なりうほうきのかみ)
最上八楯の面々は最終的に最上義光の勢力に敗れ、故地を追われたり討ち死にしたりといった運命をたどりましたが、離反した延沢満延にしても盟主・天童頼澄(頼久)の助命嘆願を行うなど、仁義を通そうとした痕跡が見られます。
そんな中、伝承だけを見ると少し様相が異なるのが成生伯耆守です。
伯耆守は天童氏の家老であり、側近として最上勢と戦ってきた人物でもあります。しかし天童城が延沢満延の攻撃を受けた際、なんと城に火を放ったのが伯耆守の家臣たちだったといいます。そして伯耆守は保管されていた出羽奥州探題の系図を持ち出し、それを手土産として最上義光のもとへ降りました。つまり伯耆守も内通していたのです。
このようにして最上八楯は瓦解しますが、伯耆守は褒賞を得るどころか裏切りを咎められ放逐されてしまいます。つまりは最上義光にいいように利用されたともいえますが、当時の文化としても離反の際の精神性が直接評価に結び付いたことを窺わせます。

伯耆守が拠点とした成生楯跡には石碑と案内板が建ち、現在も土塁や堀といった遺構を確認することが可能です。
成生城跡<Information>
- 名 称:成生城跡(成生楯跡)
- 住 所:〒994-0006 山形県天童市成生
- 電話番号:ー
- 公式URL:ー






















