【青森県】一から九まで「戸の付く地名」四戸編 幻の四戸はどこだったのか?ミステリーに満ちた四戸を探る!

「戸の付く地名」は今では「四戸(しのへ)」だけがなく、その場所と地名が残らなかった理由についてさまざまな説があるものの、これが定説と断言できるものはありません。

ただ、南部氏の庶流に四戸氏が実在していることが確認されていて、四戸という地名が広大な糠部郡(ぬかのぶぐん)のどこかにあったことは間違いないとされています。

戸の付く地名
現在に残る「戸の付く地名」 出典:Google Map

それがはたしてどこにあったのかについて、この記事では四戸にまつわる諸説の中から有力とされる説をご紹介していきます。


南部氏の傍流だった四戸氏

南部光行
奥州における南部氏の始祖・南部光行 (盛岡市中央公民館所蔵) 出典:Wikipedia

甲斐から奥州に移った南部氏の始祖・南部光行(なんぶみつゆき)の五男・宗清(むねきよ)が、四戸を領地として賜ったことで四戸姓を名乗ったのが始まりとされています。

四戸氏の分流には武田氏・金田一氏・櫛引氏・中野氏・糠塚氏などがあり、それら庶家が居城とした城が各地で四戸城と呼ばれるようになっていきました。

そのために糠部郡の各地に「四戸」が点在することになったのではないかと考えられています。


郷土資料などから考察される「四戸」の場所は?

四戸
「四戸」とされる地域 出典:Google Map

現代に残る各地の郷土資料を総合すると、馬淵川(まべちがわ)の下流域にある浅水・剣吉・名久井・福田・苫米地・櫛引・島守地区などが四戸である可能性が高いとされています。

また、岩手県が編纂した「岩手県史」では、宗清が賜った四戸郷が二戸郡にあったとあり、金田一(きんだいち)がそれにあたるとされるなど、候補地は次に挙げるように南部氏領内に広く点在しています。

五戸町を流れる浅水川流域とする説

浅水の八幡宮
浅水の八幡宮(朝水城跡)街道と浅水の集落を見下ろす丘の上にある

浅水川(あさみずがわ)は馬淵川の支流で、三戸(さんのへ)町と五戸(ごのへ)町の間を西から東に流れている河川です。

とくに浅水は街道沿いにあって小規模ながらも宿場町だったことが伝わっているほか、四戸氏の祖である南部宗清が初めにこの地に居住したとする記録が残されていることから、四戸の候補として有力視されています。

浅水の八幡宮
軽自動車がやっと通れる幅しかない街道から八幡宮へ上る参道 

また、浅水は南が三戸、東に八戸、北は五戸に接する交通上の要衝であり、三戸の防衛拠点とされた可能性が高いとする説も、浅水が四戸であるとする説の根拠の一つです。

野沢城跡
野沢城跡 この城跡も四戸城の候補

浅水川の流域には、西から浅水志戸岸(しどぎし)・野沢(ぬさ)の各集落があって、これらが四戸の候補として挙げられ、浅水と野沢に残る城跡が四戸城跡ではないかとする説があります。

浅水城跡<Information>

  • 施設名称:浅水城跡(八幡宮)
  • 所在地:青森県三戸郡五戸町浅水浅水70

GOOGLE MAP


野沢城跡<Information>

  • 施設名称:野沢城跡
  • 所在地:青森県三戸郡五戸町扇田

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八戸市の櫛引周辺とする説

櫛引八幡宮
櫛引八幡宮 出典:Amazing AOMORI(青森県観光情報サイト)

櫛引八幡宮四戸八幡宮とも呼ばれていることから、八幡宮周辺から現在の南部町あたりまでが四戸だったとして、櫛引城城主の櫛引氏がその地を治めていたとする説です。

それによると八戸市から五戸町や岩手県二戸市にかけて広大な領地をもつ櫛引清長(くしびききよなが)が、九戸の乱で豊臣秀吉に反攻して滅亡し、所領を奪われ四戸が消滅したとしています。

岩手県八戸市立図書館の学芸員である滝尻氏などがこの説を唱えていて、NHK青森放送局から2023年10月20日にこの説が放送されたほか、同局WEB特集でも取り上げられました。

この説では櫛引氏が「四戸の殿様」つまり四戸宗家とされ、櫛引が四戸であるとする根拠としていて、実際に奥南旧指録(おうなんきゅうしろく)にはそのような記述もみられます。

しかしそのほかの史料からは櫛引氏は四戸氏一族ながらその庶流である可能性が高いとされ、なかには三戸南部氏に仕えていて2,000石程度の所領だったと記述しているものもあります。

九戸城跡
櫛引清長が九戸政実に味方して戦った九戸城跡 二の丸大手から本丸方面を望む

またこの説では、櫛引清長の四戸の所領は「乱後に八戸と三戸に分け与えられたため四戸が消滅した」としていますが、このころ八戸を治めていた根城南部氏は三戸南部氏の家臣です。

そのため、櫛引氏の所領はすべて三戸南部氏に与えられたとみるのが正当とされていて、これらのことからこの説に疑問を感じる声は少なくないようです。

櫛引城跡<Information>

  • 施設名称:櫛引城跡
  • 所在地:青森県八戸市櫛引館神

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二戸市の北部の金田一にあったとする説

金田一城跡のすぐ手前にある八坂神社 この社殿の裏側が城跡

四戸氏は戦国時代の中期に浅水城から二戸郡にある金田一城に移ったとする資料があり、その金田一城が四戸城と呼ばれていたことから出た説です。

金田一城は馬淵川の左岸の河岸段丘にあって、空堀で仕切られた上館、中館、下館をそれぞれ四戸氏、切円氏、金田一氏が居城としていたと伝わり複雑な事情をもつ城郭だったと考えられています。

八坂神社
八坂神社の参道 浅水の八幡宮と同じように軽自動車が1台通れるだけの道幅

この城が四戸城と呼ばれるようになったのは、それ以前に四戸を治めたことでその地名を姓として名乗っていた四戸氏が移り住んだためではないかとみられ、四戸が二戸郡内にあったとする説を支持する声は少ないようです。

金田一城跡(四戸城跡)<Information>

  • 施設名称:金田一城跡
  • 所在地:岩手県二戸市金田一舘73

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まとめ

ここまでご紹介したように、四戸が有った場所とその名が消滅した理由については諸説紛々あり、未だに定説といえるものがありません。

ただ、糠部郡のどこかに存在していたことは間違いないとされていて、今もなおその場所を求めて捜索が続けられています。

この先、近い将来に何らかの新しい発見があって四戸が特定され、ミステリーが解決に向かうことを期待しましょう。


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