【山形県】昔は姫路城よりも広かった!本丸が霞んで見えないことから霞城と呼ばれた山形城|昔の姿を蘇らせるため着々と復元が進行中
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山形市は山形県の県庁所在地です。山形県は南部の置賜(おきたま)地域、中央部の村山(むらやま)地域、北東部の最上(もがみ)地域、日本海沿いの庄内(しょうない)地域の4つの地域に区分されています。山形市は村山地域に属していて、江戸時代には山形藩が置かれていました。
当初57万石だった山形藩は幕末には5万石に
山形藩は、戦国大名の最上義光(もがみよしあき)が、関ヶ原の戦いで徳川軍として戦い、徳川家康から置賜地域を除く、現在の山形県すべてと秋田県南部を領地として拝領した、57万石もある幕府有数の大きな藩でした。
その勢いは長続きしません。1622年に最上一族に家臣たちも加わった権力争い(最上騒動)の結果、江戸幕府により領地はすべて召し上げられてしまいます。
最上氏のあとには鳥居忠政(とりいただまさ)が領主として着任します。しかし、領地は22万石と半減し、もと領地だったところには、庄内藩、上山藩、新庄藩、天童藩、村山藩など、いくつもの藩が置かれました。
山形藩には、その後2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の子、保科正之(ほしなまさゆき)が入ります。しかし名君といわれた正之も7年で会津藩へ移動、山形藩の藩主は短い期間で松平氏から堀田氏・秋元氏・水野氏と変わります。石高も減らされ続け、幕末頃には当初の1/10以下の5万石となってしまいました。
江戸より北では最も広い敷地の山形城
山形城は、1357年に斯波兼頼(しばかねより/最上兼頼)によって築城されました。その後57万石大名となった最上氏11代当主義光によって整備され、さらに、二ノ丸の堀や石垣などは鳥居忠政(とりいただまさ)によって改修されています。
山形城には天守がなく、中心部の本丸、その外側に二ノ丸、そしてそれを囲むように三ノ丸がありました。三ノ丸の広さは約235ヘクタール、東京ドームだと50個分もの広さがあります。日本有数の規模を誇る姫路城(国宝/兵庫県姫路市)よりも広く、本丸が霞んで見えないということから“霞城(かじょう)”または“霞ケ城(かすみがじょう)”と呼ばれていました。しかし、この規模を維持することが幕末5万石にまで減った山形藩の悩みの種だったようです。
現在の山形城跡は、三ノ丸はほとんどが市街地化してしまい、本丸、二ノ丸なども建物は残っていません。明治時代以降は、本丸跡や二ノ丸跡が「霞城公園(かじょうこうえん)」として整備され、桜の名所として市民の憩いの場となっています。また、広い敷地内には野球場や体育館、博物館なども建てられ、それに国指定重要文化財である旧済生館本館(現山形市郷土館)も移築復原されました。
江戸時代の姿を蘇らせるために整備中の山形城(霞城公園)
山形市は1979年(昭和54年)の市制施行90周年を迎え、その記念事業としてかつての山形城の姿を再現することを目的とした「霞城公園」の整備を開始しました。
1991年(平成3年)に「二ノ丸東大手門」、2005年(平成17年)には「本丸一文字門大手橋」などの復原が完成し、往時の姿が蘇りつつあります。2012年(平成24年)からは本丸跡の発掘調査をするとともに、跡地は「本丸御殿広場」としてさまざまなイベントが開催される広場になる予定です。また、本丸御殿はCGによって復原、VRとして公開される予定になっています。
2018年(平成30年)には野球場が解体され、跡地は「歴史の広場」に、2023年(令和5年)に解体される山形県立体育館跡にも広場が整備され、「霞城公園」のすべてが完成するのは2033年(令和15年)の予定です。
山形城<Information>
- 施設名称:山形城(霞城公園)
- 所在地:山形県山形市霞城町1-7(管理事務所)
- 電話番号:023-641-1212(山形市公園緑地課)
- 開園時間:
- 4月1日~10月31日/5:00~22:00
- 11月1日~3月31日/5:30~22:00
- 入園料:無料(ただし園内施設で料金が必要な場合あり)
- 休園日:無休
- URL:霞城公園
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わずかに残る三ノ丸の遺構「山形城三ノ丸土塁跡」
市街化されてしまった三ノ丸跡で唯一残っているのが「山形城三ノ丸土塁跡」です。土塁とは敵の侵入を防ぐために築いた堤防状の小山で、山形城の土塁は外堀の土手にもなっています。土塁は6.5kmほどあった三ノ丸の外周沿いに造られたのですが、現在残っているのは十日町付近にわずか数10mだけです。
山形城跡は、三ノ丸土塁を含め国の史跡に指定されています。
山形城三ノ丸土塁跡<Information>
- 施設名称:山形城三ノ丸土塁跡
- 所在地:山形県山形市十日町1-1付近
- 電話番号:023-641-1212(山形市企画調整部文化創造都市課文化財係)
- 見学自由
- ※専用駐車場はありません
- アクセス:
- 鉄道/JR山形駅(山形新幹線・奥羽本線・仙山線・左沢線利用可能)山形駅東口から徒歩約10分程度
- 車/山形自動車道・山形蔵王ICから約15分
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戊辰戦争後政府の管理地になった山形藩の領地
明治維新の際、新しく誕生した政府と旧江戸幕府を擁護する藩との間に戊辰戦争(1868年~1869年)が勃発します。戦いは新政府軍の勝利に終わり、山形にあった藩のうち、新政府軍に加勢した新庄藩などごく一部の藩を除いて、旧幕府側の藩は領地を縮小されたり(減封/げんぽう)、没収されたり(改易/かいえき)してしまいました。
山形藩はというと、当初は政府軍として戦いましたが、後に奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)という東北北陸の藩が一致団結して新政府軍と戦う組織に加盟したため、敗戦後家老が処刑され、藩主は近江国(おうみのくに/滋賀県)に移動(転封/てんぽう)させられてしまいました。藩主のいない領地は没収され、政府の管理地となったのです。
廃藩置県後山形県の県都が置かれた山形市
1871年(明治4年)7月に行われた廃藩置県で藩が解体され、今の山形エリアには、山形県、米沢県、上山県、天童県、新庄県、大泉県、松嶺(まつみね)県の7つの県が置かれました。大泉県は現在の鶴岡市、松嶺県は酒田市をほぼ領域にしていた県で、同年11月には統合されて酒田県が誕生します。同時に米沢県が置賜県に、その他の地域は統合されて山形県となり、さらに1875年(明治8年)には酒田県が鶴岡県に名称変更となりました。そして1年後、山形県、置賜県、鶴岡県が統合されて今の山形県となったのです。
山形県の初代県令(知事)には三島通庸(みしまみちつね)が就任し、県庁は現在の山形市に置かれました。山形市には東北地方の大動脈、羽州街道が走り、最上川による舟運も盛んだったことから、流通の拠点としてふさわしいと判断されました。さらに大きな藩だった庄内藩や米沢藩が反政府側だったことから、政府の管理地だった当地に県庁を置いたともいわれています。
三島通庸は市街地の近代化を推し進めます。新しく建築した西洋風建築の県庁舎をはじめ、警察署・師範学校・南山学校、警察本署・南村山郡役所・勧業博物館・製糸場、済生館などが集中して造られました。しかし、1911年(明治44年)の山形北大火でそのほとんどが焼失してしまい、現在残っているのは旧済生館本館と旧山形師範学校本館のみになっています。大火はまた江戸時代から残る民家もほとんど飲み込んでしまったのです。