【山形県大石田町】江戸時代に最上川の舟運で活況を呈した大石田町
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大石田町(おおいしだまち)は、山形県のほぼ中央に位置し、最上川が中央部に流れる米やスイカに代表される農業が盛んな町です。名産のソバを使ったそば処が軒を連ねる“そば街道”には、県外からも多くのソバ好きが訪れています。毎年4月上旬に開催される「大石田ひなまつり」やラストに打ち上がる10連発の20号玉花火で知られる8月16日の「最上川花火大会」は、県内でも有数の華やかなイベントです。最上川の堤防には、昔の建物の様な風景が150mあまりにわたって続き、観光名所となっています。
奈良時代には始まっていた最上川の舟運
大石田には、最上川という大変水に恵まれた地ということで、旧石器時代から縄文時代の遺跡が発見され、その頃から人が住んでいたことが分かっています。奈良時代には舟運が始まっていたようで、最上川周辺からは舟運に使われていたと思われる丸木舟も発掘されています。
平安時代から室町時代にかけての大石田は、歴史上に登場することがあまりなく、ほとんど分かっていません。大石田の町並みや港が整備されたのは、戦国時代になって最上(もがみ)氏が領地として治めるようになってからといわれています。
最上義光が整備し機能させた大石田の船着場と町並み
特に最上家第11代当主義光(よしあき/1546年~1614年)は、大石田を最上川最大の船着場(河岸)として機能させたことで知られています。関ヶ原の戦い(1600年)で徳川軍に属していた義光は、その功により徳川家康から現在の山形市から酒田市までの広い地域を領地として認められ、50万石以上(正確には不明)の大名となりました。そこで領地内の交通を整備する必要に迫られ、最上川を交通の要として考えたのです。そして流れの穏やかな地にある大石田を中心的な河岸として位置づけ、計画的な町造りを実施しました。義光が創った町並みは、江戸時代後期に描かれた大石田河岸絵図から知ることができます。
最上氏の山形支配は長続きせず、義光の死後は家督相続の争いが絶えず(最上騒動)、幕府により身分、領地を取り上げられてしまいます。しかし、大石田が舟運の拠点であることは変わりなく、年貢米の積み出し紅花交易の港としてますます重要な役割を担うことになったのです。
大石田を発つ舟運は大石田の船に限った方運送
最上氏の失脚以降山形は庄内藩や新庄藩などいくつかの藩ができたのですが、大石田は山形藩の領地となります。山形藩では鳥居氏、保科氏、松平氏、堀田氏などが入れ代わり藩主となりますが、松平氏が治めた元禄時代(1688年~1704年)には大石田の船着場には300隻ほどの舟がありました。
大石田に船着場が造られたのには、大石田上流で川は大きく蛇行し、流れも急になる最上川三難所といわれる碁点(ごてん)、三河瀬(みかのせ)、隼(早房/はやぶさ)があったからです。大石田付近の最上川は流れが静かで船着場として最適な場所でした。大石田の舟運は、“下り大石田船、上り酒田船”といって、大石田から酒田へは大石田の舟に限り、酒田の荷物は酒田船が運ぶのが一般的で、この片運送は幕末まで行われました。これが大石田の船主が大繁盛した要因ともなったのです。
利権争いから江戸幕府直轄になった舟運管理
しかし、大石田では一部の船主が独占して支配するという状況が生まれ、それに反発する勢力と利権争いが勃発してしまいます。元禄時代の終わり頃からは舟運を手配する差配役が設けられ、一旦は落ち着くかに見えましたが、1700年代後半には再び統制が効かない状態になり、川船の数も減少してしまいました。
1792年になってこの混乱を解決するために、江戸幕府は地元民による差配役を廃止し、幕府直轄の差配役、大石田船役所を設置します。この大石田船役所は幕末まで大石田の舟運を管理しました。
明治時代に年貢米が廃止され一気に衰退した舟運
明治維新以降は年貢米が地価を基準とした税金へと変わり、舟運の重要性は減り急激に衰退しました。さらに陸路が整備され、物流は陸路中心になってしまいます。それでも、一度に運べる荷物が多いという船の利点を生かすべく蒸気船が導入されたり、客船が就航したりしましたが、1903年に奥羽本線が開通したため、大石田の舟運は終焉を迎えたのです。
護岸が整備され観光名所となった大石田河岸跡
最上川はたびたび荒れ狂い、洪水を起こしています。そのため1965年(昭和40年)から14年の歳月をかけて護岸工事が行われ、左右あわせて約2,100mのコンクリート造り堤防(特殊堤防)が造られました。その中に大石田の船着場があった場所も含まれていて、町と最上川が分断されてしまったのです。しかし、洪水被害がなくなる代わりに昔からの景観が損なわれてしまったことを残念に思う大石田の人たちから「最上川を介して栄えた町と川のつながりをなんとか再生できないか」という声が上がり、1991年(平成3年)から5年をかけて景観整備が行われました。
長さ151.6m、高さ5.8mある堤防の全面を使って、塀蔵や船役所への出入口だった大門が再現されています。江戸時代に賑やかだった大石田の船着場が新しい護岸の風景として蘇ったのです。
INFORMATON
- 施設名称:大石田町立歴史民俗資料館
- 所在地:山形県北村山郡大石田町大字大石田乙37-6
- 電話番号:0237-35-3440
- 開館時間:10:00~16:30
- 入館料:おとな 200円、高大生 150円、小中生 100円)
- 休館日:月曜日、祝日の翌日、年末年始(12月29日〜1月3日)、展示替えの休館
大石田に3日逗留し有名な俳句を残した松尾芭蕉
船着場として栄えていた元禄時代の1689年に松尾芭蕉が大石田を訪れ、3日間滞在しています。予定では大石田から川下りを楽しもうと思っていた芭蕉たち一行は、天気が悪く天候の回復を俳句仲間の高野一栄宅で待つことになったのです。その際句会も開かれていて、集まった4人で歌仙(かせん/36首の連続した句集)『さみだれを』(山形県指定文化財)を残しています。
歌仙『さみだれを』の中で芭蕉が残した一句が
さみだれをあつめてすゞしもがみ川
です。『おくのほそ道』には有名な“五月雨をあつめて早し最上川”がありますが、この句は大石田から新庄へ旅して、そこから最上川の川下りをした際に詠まれたもので、最初は大石田で”すゞし”詠んだのです。しかし、いろいろ推敲した結果“早し”になったのではないか、といわれています。
舟運により関西からの文化が残る大石田
大石田には大阪方面と取引があった酒田を経て、京都や大阪の文化が伝わっています。その代表的なものがおひな様です。大型の“享保雛(きょうほびな)や、現代のおひな様の原型といわれる“古今雛(こきんびな)”、京都の“御所人形”などが、今も多くの民家に保存されています。4月上旬に開催される、“おひなみ”といって各家庭に飾り付けられたおひな様を見てまわることができる「大石田ひなまつり」は、大石田春の風物詩です。
INFORMATON
- 大石田町
- 所在地:山形県北村山郡大石田町
- 電話番号:0237-35-2111(大石田町役場)
- URL:大石田町観光情報サイトおーいしだより