
伊達政宗の灰塚とその墓守を担う大願寺|伊達家に伝わる特異な葬送儀礼【宮城県】
目次
宮城県仙台市青葉区新坂町にある浄土宗の寺院、増上山 大願寺(ぞうじょうざん だいがんじ)。
ここは仙台藩初代藩主 伊達政宗の葬送儀礼に深く関わる歴史を持つ寺院として知られています。
伊達政宗の葬儀が行われた地「増上山 大願寺」
戦国大名であり、仙台藩初代藩主である伊達政宗は寛永13年(1636)5月24日に、江戸の仙台藩邸にて70年の生涯を終えました。
遺体は遺言に従って速やかに仙台へと運ばれ、仙台城の東部に位置する経ヶ峯に築かれた廟所(現在の瑞鳳殿)に埋葬されました。
その後、北山五山の一角である覚範寺(仙台市青葉区北山)では連日法要が行われ、6月23日に仙台城北部の北山南麓に位置する原野で大規模な葬儀が執行されました。この場所は後に大願寺の寺地となります。
遺骸はすでに経ヶ峯への埋葬を終えた後だったため、この葬儀は遺骸を伴わない形で執り行われ、空の棺と副葬品を火葬し、その灰は埋納されて上には塚が築かれました。
伊達家特有の葬送儀礼「灰塚」とは?
前述の通り、このとき築かれた塚の下には空の棺と副葬品の遺灰のみ埋納されており、灰塚(はいづか)と呼ばれています。

遺体そのものが納められていないこうした葬送儀礼は他の大名家ではあまり見られず、伊達家特有の風習であるとされています。
成立の正確な時期は不明ですが、戦国時代初期頃に遺体の所在を秘して墓所を隠蔽することで、敵方の乱妨取りや墓荒らしの盗掘行為を防ぐといった意図があったのではないかと考えられています。
灰塚を守る墓守としての大願寺の成立
政宗の葬儀後、増上山正雲院三縁寺の和尚がこの地に寺地の拝領を願い出て、灰塚を守ることを条件に寺号を「大願寺」と改め、寺領六十石が与えられました。

大願寺は仙台藩内において特別な地位を与えられ、政宗の葬礼の地の墓守としての役割を担うことになります。
その後、政宗の母・保春院(義姫)、二代藩主伊達忠宗、三代藩主伊達綱宗の灰塚も北山周辺にあったようですが都市化による開発によって失われてしまい、現存しているものは伊達政宗とその母・保春院(義姫)のもののみです。
灰塚の風習自体は四代藩主綱村の代まであったといわれていますが、後の五代藩主吉村により「戦国の遺風」であるとして廃止されることになります。
現在の大願寺と灰塚
大願寺は宮城県仙台市青葉区新坂町の地に現存し、墓守としての役割を担い続けています。
本堂

大願寺本堂は過去に二度火災に見舞われており、現在の本堂は昭和八年(1933)に再建されたものになります。
伊達政宗公灰塚

四方を堀(周濠)に囲まれた伊達政宗公灰塚の領域は現在は「灰塚山野草苑」として生い茂る植物の保護も行われています。

大願寺山門(旧万寿院殿霊屋門)

大願寺の山門は、宝永6(1709)年に造営された仙台藩四代藩主 伊達綱村公 夫人 仙姫(万寿院)墓所の門を、明治初期に移築したもので、1987年に仙台市の有形文化財に指定されています。

門に刻まれている「三の字」は仙姫(万寿院)の実家である稲葉氏の「隅切角に三の字」と呼ばれる家紋。江戸時代中期の伊達家霊廟建築を知ることができる貴重な文化財の一つです。
仙台三十三観音第七番札所の観音堂
仙台の三十三観音札所は仙台藩四代藩主 綱村公の時代に選定されたと伝えられ、仙台城北部の川内亀岡にある法楽院を第一札所観音とし、北山~荒町~六郷~四郎丸と、仙台城周辺を北~東~南へと巡り経ケ峰の南麓・鹿落観音堂で終了する霊場巡礼です。

大願寺の境内には第七番札所となる観音堂があります。
大願寺<Information>
- 名 称:増上山 大願寺
- 住 所:〒981-0934 宮城県仙台市青葉区新坂町7−1
- 電話番号:022-234-3774
- 公式URL:http://www.s-daiganji.com/