【山形県山形市】明治維新後三島通庸によりすっかり景観が変わった山形市
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山形市は、山形藩の城下町として整備され、特産の紅花の交易で発展した商業都市でした。その中心にある山形城は大変広く、いちばん外側にあった三ノ丸は約235ヘクタール、東京ドームだと50個分もの広さがあります。商人町は三の丸の外側に造られているのですが、山形城の中心に建つ本丸は霞んで見えないということから“霞城(かじょう)”または“霞ケ城(かすみがじょう)”と呼ばれていました。
明治維新後、1871年(明治4年)7月に行われた廃藩置県で藩が解体され、今の山形県エリアには、山形県、米沢県、上山県、天童県、新庄県、大泉県(鶴岡市)、松嶺(まつみね/酒田市)県の7つの県が置かれました。その後紆余曲折はありましたが、1876年(明治9年)に現在の山形県が誕生したのです。
県都にふさわしい市街地を整備した山形県初代県令三島通庸
山形県の初代県令(知事)には三島通庸(みしまみちつね)が就任し、県庁は現在の山形市に置かれました。山形市には東北地方の大動脈、羽州街道が走り、最上川による舟運も盛んだったことから、流通の拠点としてふさわしいと判断されたといわれています。ほかにも山形県には庄内藩や米沢藩のよう勢力が大きく発展していた藩があり候補に挙がっていたですが、戊辰戦争(1869年)の際、これらの藩は反政府側だったことから、県都にはなれませんでした。
三島通庸は、内務卿・大久保利通に認められ、東京府参事として東京銀座の煉瓦街建設など、都市改造計画の責任者として活躍したのち、1876年(明治9年)に初代山形県令となりました。三島通庸が山形で過ごしたのは、1876年から7年間でしたが、その間に山形県の都市整備事業を推進し、山形県庁舎をはじめとし地方方郡役所の建築、新道開削や石橋架橋の道路整備事業など、多くの実績を残しています。
山形を後にした三島は、福島県令、栃木県令などを歴任し、1885年(明治18年)には警視総監に就任しています。1888年(明治21年)没。直系の子孫には元首相麻生太郎、親戚には三島由紀夫などがいます。
木造から石造りの大きな建物へ大変身した旧城下町
三島は山形城の本丸、二ノ丸跡はそのまま残し、三ノ丸で都市整備計画を進めます。1877年(明治10年)には江戸時代から続く商店街七日町に西洋建築の県庁を、その隣に県会議事堂を建てます。
山形県庁舎から南側に広い道路をまっすぐに伸ばし、道路の東側は警察署・師範学校・南山学校、西側には警察本署・南村山郡役所・勧業博物館・製糸場、少し離れて済生館など、県の主要な官署や施設が集中して建てられました。
江戸時代から続く木造建築の商店街は、すべて市民が見たこともない西洋風の建物に様変わりし、町並みは一気に変貌したのです。市民たちは驚き、新時代への期待も膨らんでいきました。
明治に山形を襲った大火は、明治維新後の市街地を灰に
山形市は明治時代に2回の大火に見舞われています。最初の大火は1894年(明治27年)5月の市南の大火と呼ばれる市の南部を焼いた火事です。
“市南の大火”は、商店街の南部に位置する旧蝋燭町(ろうそくまち/現十日町2丁目)を火元とし、強風によって火の手は四方に広がり、現在の十日町を中心に1,600軒以上が焼失しました。この火災では、江戸時代から続く旧家や商家がほとんど燃えてしまいましたが、蔵造りだった家屋は焼失を免れ、これ以降山形市には蔵造りが増えたといわれています。
1911年(明治44年)5月には市北の大火が発生しました。市南の大火が起こった十日町の北側に位置する現在の七日町のそば店から発生した火災が、強風に乗って七日町の商店街を焼き尽くします。その後火は県庁のある官庁街へと燃え移り、県庁をはじめ警察署、裁判所、学校、銀行などすべて焼き尽くしてしまったのです。
この2回の大火は延べ3,000軒もの家屋と神社仏閣、それになにより三島通庸が創り上げた新しい町並みをすべて灰にしてしまいました。しかし、幸いなことに「旧山形師範学校本館」(山形県立博物館教育資料館)と「旧済生館本館」(山形市郷土館)は、火元から少し離れていたところにあったため焼失を逃れ、当時の姿を残す貴重な建物となっています。
再建された県庁と国会議事堂は移転され「文翔館」に
三島通庸の造った県庁と県会議事堂は残念ながら残っていません。現在ある旧県庁と旧県会議事堂は1916年(大正5年)に再建されたもので、1975年(昭和50年)に県庁が現在の場所(山形市松波)に新築されるまで山形県庁および議事堂として使用されました。県庁・議事堂の役割を終えた後は、大規模な復原作業ののち山形県郷土館(文翔館)として一般公開され、創建当初の姿を今に伝えています。文翔館は、「山形県旧県庁舎及び県会議事堂 (山形県郷土館)」として国指定重要文化財です。
旧県庁舎はレンガ造り3階建てで、外壁は石貼りになっている重厚感のある佇まいで、時計台は、札幌時計台に次いで日本で2番目に古く、今でも時を刻み続けています。旧県会議事堂はレンガ造り一部2階建てで、現在でもコンサートなどさまざまな催しに使われています。
文翔館<Information>
- 施設名称:山形県郷土館(文翔館)
- 所在地:山形県山形市旅篭町3-4-51
- 電話番号:023-635-5500
- 開館時間:9:00~16:30
- 入館料:無料
- 休館日:第1・第3月曜日(ただし、祝祭日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
- URL:山形県郷土館(文翔館)
- アクセス:
- 鉄道/山形新幹線・JR奥羽本線山形駅から路線バスで約10分
- 車/山形自動車道山形蔵王ICから約10分
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解体の危機を乗り越え移築復元された「旧済生館本館」
旧済生館本館は、1878年(明治11年)に県立病院として設立され、一時民営化されましたが1904年(明治37年)からは市立病院済生館の本館として使われるようになりました。しかし、1960年になって、手狭になった病院を改築工事することになり、旧本館は解体することが決定したのです。しかし、明治初期の貴重な建物を失うことを惜しむ市民団体が保存運動を展開した結果、国がその重要性を認め、1966年に国の重要文化財の指定を受けることができ、解体を免れました。そして、病院の敷地が狭いため、現在の霞城公園(山形城址)に移転し復原されることになったのです。
1971年(昭和46年)からは山形市郷土館として、漢方や西洋医学の資料、山形城や郷土の歴史資料が展示・公開されています。
旧済生館本館<Information>
- 施設名称:旧済生館本館(山形市郷土館)
- 所在地:山形県山形市霞城町1-1(霞城公園内)
- 電話番号:023-644-0253
- 開館時間:9:00~16:30
- 入館料:無料
- 休館日:12月29日~1月3日
- URL:旧済生館本館(山形市郷土館)
- アクセス:
- 鉄道/山形新幹線・JR奥羽本線山形駅から路線バスで霞城公園南門バス停下車、徒歩約15分
- 車:山形自動車道山形蔵王ICより約15分
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建設当時の塔屋が残る「旧山形師範学校本館」
旧山形師範学校本館は、1878年(明治11年)に開校した県立師範学校で、1901年(明治34年)に現在地(山形市緑町)に移転する際に新築されたものです。第2次世界大戦後、師範学校が廃校になり、1963年(昭和38年)には山形県立山形北高校として使用されましたが、1971年(昭和46年)に山形北高校が改築され、学校としての使命が終わりました。
山形北高校の改築の際、現在残っている本館と一部の施設を残して教室部分などは解体されてしまったのですが、残された部分を修理復原工事が施され国の重要文化財に指定されるとともに山形県立博物館教育資料館として開館されました。建物中央にある塔屋は、明治11年に創建された旧校舎時計台の名残です。
旧山形師範学校本館<Information>
- 施設名称:旧山形師範学校本館(山形県立博物館教育資料館)
- 所在地:山形県山形市緑町2-2-8
- 電話番号:023-642-4397
- 開館時間:9:00~16:30(入館は16:00まで)
- 入館料:おとな 150円、学生 70円、小学生・中学生・高校生無料(山形県立博物館入館料は別途)
- 休館日:月曜日(祝休日の場合は翌日)、12月28日~1月4日
- URL:旧山形師範学校本館(山形県立博物館教育資料館)
- アクセス:
- 鉄道/山形新幹線・JR奥羽本線山形駅東口から霞城公園東大手門経由で徒歩約15分、西口から霞城公園南門経由で徒歩約10分
- 車/山形自動車道山形蔵王ICから約20分
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赴任期間7年、山形県の近代化産業遺産の約半数に関わる三島通庸
山形市には三島通庸の関係した建物は残念ながら旧山形師範学校本館、旧済生館本館(一部)だけになってしまいましたが、山形県全体を見渡すと、旧西田川郡役所(鶴岡市/国指定重要文化財)、旧鶴岡警察署庁舎(鶴岡市/山形県県指定有形文化財)、旧西村山郡役所・議事堂(寒河江市/山形県指定有形文化財)、旧東村山郡役所(天童市/山形県指定有形文化財)などが残っています。それらはすべて文化財に指定されている素晴らしい建物です。
建物だけではありません。交通インフラの整備にも力を注いでいます。各都市間の新道建設をはじめ、道路だけで23ヶ所、橋65ヶ所にもなっています。橋は地元の要望で架けられたものもあり、基本的に金銭的には地元の負担で、足りないところを援助するという、県の財政負担を軽減しながら近代化が図られました。
2008年(平成20年)に経済産業省が認定した近代化産業遺産で、山形県26か所の産業遺産のうち三島通庸が行った事業が約半数を占めているのです。赴任期間7年、その短い間でこれだけの事業を遂行した三島通庸の偉大さが分かります。