【山形県鶴岡市鼠ヶ関】源義経や松尾芭蕉も越えた奥州三古関のひとつ「鼠ヶ関」

鼠ヶ関(念珠ヶ関・念珠関/ねずがせき)は、律令政治時代(飛鳥時代~平安時代)に、大和朝廷がまだ支配できていなかった東北地方(蝦夷/えみし)から支配地域(関東北陸地方以西)への侵攻を防ぐために作った砦の役割をする関所でした。

同じ目的で太平洋沿いの「勿来の関(なこそのせき)」(福島県)、内陸部の「白河の関(しらかわのせき)」(福島県)が設けられ、人々の行き来を厳しくチェックしていたと考えられています。

やがて東北地方まで朝廷の力が及んで、出羽国(山形県・秋田県)や陸奥国(福島県・宮城県・岩手県・青森県)が成立してからもしばらくは関所が置かれていました。

新潟県との県境にある鶴岡市温海町鼠ヶ関。写真中央山の先が線路に迫る、線路の右側(海側)に「古代鼠ヶ関」が発掘された。そこが新潟県(上側)との県境。 ©山形県

この“奥州三古関”と呼ばれる3ヶ所の関所は、平安時代後期には東北地方との交流が活発になり、次第にその役割を終えてしまいます。江戸時代には3ヶ所ともその痕跡もなくり、実在したかどうかも分からなくなったのです。

それでも、奈良・平安時代の和歌にその名前が登場していることで、3ヶ所の関所はその地を支配していた藩主によって跡地の発見、発掘作業が行われ、観光の名所として整備されました。


庄内藩主が整備した「近世念珠関址」と昭和になって発掘整備された「古代鼠ヶ関址」

「古代鼠ヶ関址」の跡地にはこの案内板だけ立っている ©鶴岡市

「鼠ヶ関」は、出羽国と越後国(新潟県)の国境に設置されていたのですが、他と同様その場所は特定できていませんでした。

しかし、江戸時代には当地を治めていた庄内藩主が日本海沿いの国境(県境)近くに“念珠(ねんじゅ)関跡”を整備しています。

「近世念珠関址」。鶴岡市指定史跡 ©やまがたへの旅

長い間庄内藩が整備した場所が鼠ヶ関の跡地とされてきましたが、1968年(昭和43年)に行われた発掘調査で、もう少し県境に近い場所に鼠ヶ関跡が発見されたのです。そのため新たに発見された鼠ヶ関跡を「古代鼠ヶ関址」、庄内藩が整備した場所を「近世念珠(ねんじゅ)関址」としてそれぞれ史跡として公開されています。

「古代鼠ヶ関址」発掘調査と同じくして、関所の門前のある集落(関戸聚落/せきどしゅうらく)から軍事目的だったと推定される建物跡や製鉄・製塩・土器焼成窯跡などが出土し(関戸生産遺跡)、この場所が関所跡だったという確証が得られました。

※「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」、「近世念珠址」は鶴岡市指定史跡です。

古代鼠ヶ関址、関戸生産跡<Information>

  • 施設名称:古代鼠ヶ関址、関戸生産跡
  • 住所:山形県鶴岡市鼠ヶ関丙45−1
  • 電話番号:0235-43-3547(あつみ観光協会)
  • 施設名称:近世念珠関址
  • 住所:山形県鶴岡市鼠ヶ関甲246
  • 電話番号:0235-43-3547(あつみ観光協会)

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平安時代に歌枕として紹介されている「ねずみの関」

「鼠ヶ関」があったと後の人々に知られることとなったのは、『小倉百人一首』にも登場する平安時代の僧侶能因(のういん)が残した歌学書『能因歌枕』です。

“歌枕”とは短歌などに登場する名所などのことで、能因は、全国の歌枕として詠われている名所などを『能因歌枕』としてまとめています。

「能因歌枕」で出羽国の最初に登場する“ねずみの関”  所蔵:国立文学研究資料館

「鼠の関」は、『能因歌枕』の中で出羽国(いではのくに)の歌枕を紹介する項でいちばんはじめに“ねずみの関”と書き記しています。

これが歴史上「鼠ヶ関」の最初の登場ですが、残念ながら“ねずみの関”が登場する詩歌は見つかっていません。


国境にあった「鼠ヶ関」の跡地は今も県境

県境標の奥へ歩くとすぐに「古代鼠ヶ関址」がある ©やまがたへの旅

「鼠ヶ関」は出羽国と越後国の国境にあったのですが、現在も山形県と新潟県との県境になっていて「古代鼠ヶ関址」の近くには県境を示す“山形県新潟県境標”が立っています。

ここが県境?と思うほど町の真ん中なのですが、「鼠ヶ関」の時代はここに北陸道(古代の街道)という1本の道が通っていただけだったのです。


源義経が東北逃避行でたどり着いた伝わる鼠ヶ関海岸

義経が上陸したと伝わる鼠ヶ関海岸の夕日 ©山形県

平安時代から鎌倉時代へと移り変わる激動の時代に、源頼朝とともに平家を滅ぼす原動力となった源義経は、その力を恐れた兄頼朝から都を追い出され、奥州平泉(岩手県)において絶大な勢力を誇り、義経自身青春時代を過ごした奥州藤原氏を頼って日本海を北上します。

そして義経は鼠ヶ関の海岸から上陸し、「鼠ヶ関」の木戸をくぐって平泉に向かったといわれています。このことは室町時代頃書かれた軍記物語『義経記(ぎけいき)』からの類推ですが、海岸近くには「義経上陸の地の碑」が建てられています。

歌舞伎「勧進帳」では、義経・弁慶が上陸したのは安宅の関(石川県小松市)だが、鼠ヶ関が上陸地点ともいわれている 「義経弁慶勧進帳」 所蔵:東京都立図書館

義経が上陸したと伝わり、“恋する灯台”が人気の弁天島

「弁天島」は、鼠ヶ関海岸にある周囲800m、一周15分程度の小さな島で、以前は陸続きになる干潮時だけしか渡ることができませんでしたが、現在では遊歩道橋が整備されていつでも行けるようになっています。

島には源義経が奥州藤原氏に助けを求め北上中に、この島に上陸したという言い伝えがあり、島の厳島神社には記念碑(1966年のNHK大河ドラマ『源義経』放映時に建立)が建てられました。

日本海側の先端には“恋する灯台”に認定された「鼠ヶ関灯台」があり、展望デッキからの夕日は絶景です。

“恋する灯台”鼠ヶ関灯台 ©やまがたへの旅

弁天島<Information>

  • 施設名称:景勝弁天島
  • 住所:山形県鶴岡市鼠ヶ関海岸
  • 電話番号:0235-43-3547(あつみ観光協会)

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松尾芭蕉も越えた「鼠ヶ関」

温海町の海岸線にある塩俵岩近くに建つ「芭蕉句碑」

松尾芭蕉は、「おくのほそ道(奥の細道)」紀行の途中「鼠ヶ関」を越えて、越後路へ向かっています。

出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)に参拝したあと、最上川の舟旅を楽しみながら日本海に臨む酒田(山形県酒田市)に到着し数日滞在します。その後少し北の象潟(秋田県にかほ市)へ行き、再び酒田に戻ったときに、

あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ

と詠んでいます。芭蕉が酒田を訪れたのが、夏の暑い時期(旧暦6月)だったので、遠くに見えるあつみ山(温海岳/標高736m)が吹浦(酒田の海岸)で夕涼みをしているようにみえたのでしょう。

その後庄内平野を日本海沿いに南下し、あつみ山の麓にある温海温泉(あつみ温泉)に1泊し、「鼠ヶ関」を越えました。1689年6月27日のことです。


江戸時代から代々手入れされてきた「念珠の松」

「念珠の松庭園」は、世界的に有名な造園家中島健氏の設計 ©やまがたへの旅

「念珠の松」は、約400年前に村上や旅館(村上屋旅館/1960年廃業)の当主が庭に植えた松で、代々手入れされ旅館廃業後も自治体により大切に保護されている黒松です。

主幹は高さ約4m、幹囲りは約1.2mですが、伸びている枝は東方向に地を這うように20mほど伸びています。現在は念珠の松を中心に「念珠の松庭園」が整備され、市民の憩いの場となっています。

※「村上屋の念珠のマツ」は山形県の天然記念物です。

念珠の松庭園<Information>

  • 施設名称:念珠の松庭園
  • 住所:山形県鶴岡市鼠ヶ関字興屋87の内ほか
  • 電話番号:0235-43-3547(あつみ観光協会)
  • 開園時間:
  •    4月~10月/9:00~17:00
  •    11月~3月/9:00~16:00
  • 休園日:無休
  • 入園料:100円(協力金)

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松尾芭蕉が宿泊した歴史ある温泉「あつみ温泉」

温海川沿いに高級旅館が建ち並ぶあつみ温泉 ©やまがたへの旅

「あつみ温泉」は、温海岳のふもとに湧き、1000年以上の歴史があると伝わる温泉です。江戸時代は庄内藩の湯役所が設けられ、湯治場として賑わっていました。

泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩泉で源泉温度68℃。切り傷、やけど、湿疹、皮膚病、神経痛、リウマチ、婦人病、病後回復、健康増進などに効果があります。

温泉施設は宿6軒(温海温泉旅館協同組合加盟)と旅行客も入れる日帰り入浴施設が1軒あります。効能豊かで豊富な温泉に加え、日本海や庄内平野の幸で最高のおもてなしが自慢の「あつみ温泉」。「鼠ヶ関」を訪問する時には「あつみ温泉」を予定に加えることをおすすめします。

あつみ温泉<Information>

  • 施設名称:あつみ温泉
  • 住所:山形県鶴岡市湯温海
  • 電話番号:0235-43-3547(あつみ観光協会)
  • URL::あつみ温泉

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