歴史

【宮城県】宮城県の戦国武将「遅れてきた独眼の英雄」

戦国時代の宮城県は、鎌倉時代に幕府から領地を与えられ土着した国人領主などが争う群雄割拠の状況でした。そのなかで勢力を伸ばした伊達氏は、14代稙宗と15代晴宗が「天文の乱」で争い、次第に力が削がれていきます。

その後、伊達家を立て直したのは17代当主の政宗と、彼を支えた2人の武将でした。

「奥羽の独眼竜」伊達政宗(だて・まさむね:1567~1636)

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伊達氏の版図を最大にし、杜の都・仙台を築いた政宗は、幼少時の天然痘で右目を失明します。現代では刀のつばの眼帯姿で知られていますが、その姿は後世の演出とされています。

政宗生涯の師・虎哉禅師

父・輝宗が招いた美濃(岐阜県)の名僧、虎哉宗乙(こさい そういつ)との出会いが、政宗を東北最強の戦国武将に育てたと言われています。

政宗は右目を失った容姿を醜いとし、卑屈な性格であったとされていますが、虎哉禅師より人として武将としての生き方を学びます。

また、政宗は禅師から学問も学び漢詩・和歌・能など文学の教養は京の歌人などに優るとも劣らなかったと伝わっています。

家督相続と父・輝宗の死

輝宗の隠居で17代当主として家督を相続した天正12年(1584年)ごろは、伊達・田村と蘆名・大内・畠山との間で戦が続くなか、天正13年(1585年)に畠山義継が降伏し、政宗から二本松の所領を安堵されます。しかし、義継が取りなした輝宗を拉致し人質としたため、輝宗自らの命により父もろとも義継以下全員を鉄砲で射殺する事件が起こり、輝宗によって統率が取れていた諸家は伊達家を離れていきました。

人取橋と摺上原、2つの大合戦

輝宗の初七日が明け、政宗は弔い合戦として伊達・田村・相馬連合軍13,000で二本松城を攻めるも、相馬義胤が引き揚げ(寝返り説あり)7,000となり、二本松城救援の佐竹・南奥諸大名連合軍30,000と、福島県本宮市の人取橋付近で合戦になりました。

兵が少なく敗色濃厚の伊達軍は、宿将・鬼庭左月斎の討ち死になどにより引き分けに持ち込みますが、絶体絶命でした。しかしその夜、佐竹軍が諸事情により撤退し壊滅を免れました。

その後、二本松城が落ち天正17年(1589年)、政宗は23,000の大軍で会津に侵攻し、蘆名軍18,000と磐梯山麓・摺上原で激突、これを破り蘆名義広は実家の佐竹家に逃走して蘆名家は滅亡し、政宗は南奥羽の覇者となりました。

天下人とのせめぎ合い、米沢から岩出山、そして仙台へ

南奥羽を手にしたものの、豊臣秀吉によって会津などを取り上げられ旧領の米沢72万石のみ安堵されますが、天正19年(1591年)に一揆を扇動したかどで、宮城県の岩出山城58万石に減転封されます。しかし政宗は野望を諦めず、秀吉や徳川家康とせめぎ合いを展開します。

慶長出羽合戦で家康に付き、上杉軍と戦いましたが、またも一揆の扇動が発覚して加封されず、居城を仙台に移して城下町の開発を始めます。

領国の開発に力を注いだ晩年

晩年の政宗は世情の変化を悟り、領国経営に注力します。仙台城下を開拓して有数の穀倉地帯となし、また上方文化を取り入れるなどのほか、国宝の瑞巌寺や大崎八幡宮などを建立しました。

政宗は徳川3代将軍・家光にまで仕え、家光からは「伊達の親父殿」として信頼が厚かったとされ、寛永13年(1636年)江戸上屋敷にて68歳でこの世をさりました。

INFORMATION
  • Google Map 仙台城跡

「独眼竜を支えた軍師」片倉景綱(かたくら・かげつな:1557~1615)

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通称「小十郎」と呼ばれる景綱は輝宗の小姓でしたが、姉が政宗の乳母とだったこともあり政宗の近侍となります。政宗より10歳年上の景綱は知略に優れ、軍事と外交に才能を発揮し、政宗から厚い信頼を得ていました。

政宗が出陣した主要な合戦のほとんどに軍師として参加し、伊達軍の危機を救っています。

その才能は豊臣秀吉や徳川家康にも評価され、秀吉には直臣にスカウトされ、家康は「一国一城令」の特例として、仙台藩において景綱を白石城城主と認めました。

INFORMATION
  • Google Map 白石城

「伊達家中一の剛勇」伊達成実(だて・しげざね:1568~1646)

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政宗を武勇で支えた成実は、兜の前立ての毛虫(ムカデとする説もあり)で有名ですが、これは毛虫が決して後退しないことにあやかったとされ、政宗のいとこにあたります。

人取橋の合戦では伊達軍が潰走するなかを、鬼庭左月斎と同様に踏みとどまり政宗を逃すなど、数々の合戦で伊達軍の精鋭部隊として軍功を挙げました。

文禄4年(1595年)に突然出奔しますが5年後に帰参し、その理由は不明とされています。

なお、成実や家臣の子孫が北海道に移住して開拓をしたのが現在の伊達市です。

INFORMATION
  • Google Map 亘理要害跡(臥牛城跡)

まとめ

「生まれるのが20年早ければ天下人」と言われる伊達政宗。もし天下を取っていたら、日本の首都は仙台になっていたかもしれませんね。

伊達氏の末裔の方々は現在も仙台だけでなく全国でご活躍されていますが、有名なのはお笑い芸人「サンドウィッチマン」の伊達みきお氏ですね。彼は政宗の直系ではありませんが、正しく伊達氏の一族です。

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