歴史

【岩手】岩手県の戦国武将「岩手県ゆかりの戦国武将を知っていますか?」

「岩手県ゆかりの戦国武将を知っていますか?」
こう聞けば、ほとんどの人が「知らない」と答えるでしょう。

でも、岩手に全国人気の武将はおらずとも、もっと評価されるべき武将はいます。
ここでは、地味でも味がある岩手県の戦国武将をご紹介します。

領土を最も広げた南部晴政(なんぶ・はるまさ:1517~1582)

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岩手の戦国大名南部氏は甲斐源氏の流れをくみ、鎌倉時代に今の山梨県南部町から陸奥国に入国しました。

その領土を最も広げたのが南部氏24代当主の晴政です。青森県の大部分と岩手県の北半分を合わせ、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われたほどで、領内に入った時の三日月が出る時は満月になるほど領内が広く、通過に日数がかかるとされました。

晴政の居城は三戸城(青森県三戸町)でしたが、青森県の大部分と秋田県鹿角地方、そして岩手県北部も領土としたので岩手の武将としてよいでしょう。

晴政は戦に強い武将でしたが、後継ぎ問題で南部家中に対立を引き起こすなど、政治力は高くなかったとされています。

ただ、度量が大きなところがあり、人望は厚かったようです。

泥沼となった後継者争い

実子がない晴政は、弘前の叔父・石川高信の子で従弟の石川信直と、自分の娘を結婚させ養子として後継ぎとしたのですが、その後実子・晴継が誕生したことで信直を遠ざけるようになりました。

やがて信直に嫁がせた晴政の娘が早世すると廃嫡の動きが露骨になり、信直は刺客から逃れるために家臣の家を転々とするなど、家中は晴継派と信直派に分かれ対立します。

そして、その隙を突いた大浦(津軽)為信に弘前を攻められ、石川高信を失い津軽地方を奪われてしまうのでした。

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  • Google Map 三戸城跡

盛岡藩の礎と盛岡城を築いた南部信直(なんぶ・のぶなお:1546~1599)

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盛岡南部家の初代当主で、「南部家中興の祖」とされる南部氏26代当主です。

秀吉・家康と良い関係を築き、大藩とされる盛岡藩はこの信直によって培われ、派手な戦歴こそありませんが、激動の時代を乗り切ったとして評価の高い武将でした。

家督相続、そして津軽遠征と小田原征伐への参陣

晴政の死後、南部氏25代当主となった晴継が早世(毒殺説あり)したため、今度は信直派と南部一族の九戸実親派に家臣が分かれて争いますが、大評定により信直が26代南部氏当主となりました。

しかしこの間、津軽地方で暴れ回る大浦為信に対して手を打てず、津軽の領土は大きく切り取られていたのです。

天正18年(1590年)にようやく津軽に攻め込むも苦戦、その最中に秀吉の小田原征伐の参陣要請に応じ、兵1千を率いて小田原に参陣します。

秀吉から所領を安堵された信直は大浦為信を訴えます。しかし、この時すでに為信は秀吉から津軽を所領安堵されており、訴えは却下されました。

居城の移転、三戸城・九戸城・盛岡城

天正19年(1591年)、家督相続で晴継を推し、次いでは実弟の実親を推した九戸政実が乱を起こし、鎮圧に苦しんだ信直は秀吉に援軍を求めました。

秀吉は、この機会に奥州各地の一揆もまとめて鎮圧しようと10万の大軍勢を送り、九戸氏を滅ぼして九戸城を信直に与え、信直は福岡城と名を改め居城とします。

その後も津軽為信の悪行を訴える信直には津軽の替わりに岩手県中部の和賀郡、稗貫郡2郡が加増され、信直10万石の大名となりました。

南部領が南に拡がったため、信直は南の不来方(こずかた)に盛岡城(岩手県盛岡市)を築き始めますが、領土を接することになった伊達政宗を警戒するためとの説もあります。

朝鮮出兵と信直の最期

信直は文禄元年(1592年)兵1千を率いて肥前名護屋城に参陣するも、渡海せず帰国します。

慶長3年(1598年)に秀吉が没した後は家康に仕え、慶長4年(1599年)に盛岡城の完成を待たずに福岡城で病没しました。

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  • Google Map 盛岡城跡

秀吉に逆らった九戸政実(くのへ・まさざね:1536~1591)

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最後にもう一人、岩手県北出身の強い武将をご紹介しましょう。

九戸氏は岩手県北部の九戸村一帯を領地とする南部氏の一族で、九戸勢は戦に強く、南部勢の精鋭中の精鋭として大きな力を持っていました。

南部氏家督相続で信直と対立していましたが、1591年3月に兵5千で挙兵。九戸城(岩手県二戸市)に籠城して10万の秀吉軍相手に奮戦します。

しかし、多勢に無勢、最後は開城の呼びかけに応じて降伏し、処刑されました。

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  • Google Map 九戸城跡

まとめ(その後の南部氏)

明治維新後、南部家は華族とされ伯爵家となります。
盛岡城は明治7年(1874年)に解体され、本丸跡に日露戦争で戦死した南部氏第42代当主の南部利祥公の騎馬像「南部中尉銅像」が1908年に建立されました。

しかし、1944年に戦時の金属供出として提供され、今では台座だけが残されています。

ちなみに、南部氏の系譜は今でも続いていて、2022年4月現在のご当主は46代目です。

Editor-SK

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NEFT編集部の人間です。
酒、音楽、旅行が好きで平日は仕事終わりに酒に溺れ、休日は空きあれば近隣へ旅行に出かけています。いづれはNEFT取材で東北の縁を探しに海外へ!を目標に日々勤しんでおります。

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