
新選組の生みの親 清河八郎|幕末の幕を開いた攘夷志士の人柄とは?【山形県】
新選組結成のきっかけを作った男、清河八郎(きよかわ はちろう)をご存知でしょうか?
「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本竜馬が閉じた」といわれるほど当時の日本に大きな影響を与えた人物ですが、坂本竜馬や他の幕末志士達に比べるとその知名度は決して高いとはいえません。
また、歴史好きの間では日本を大きくかき乱す「扇動者」や幕府を欺く「ペテン師」などあまり良いイメージを持たれていないのも事実です。
果たして清河八郎とはどのような人物だったのか、その人柄にスポットをあててご紹介します。
清河八郎とは

清河八郎は、出羽国庄内藩領の清川村(現在の山形県庄内町清川)に生まれた幕末の志士で、倒幕を目指して精力的な活動を展開した人物です。のちに尊王攘夷の先駆者的存在として「西の吉田松陰、東の清河八郎」とまで称されました。
幕末屈指の天才、文武両道な人物像
清河は18歳で家出したのち、江戸の私塾で学問の道をひたすら追及します。
日本一の教育に失望し、自ら塾をひらく
睡眠は寝床に入らず机で2時間の仮眠のみ。こんな学問漬けの生活を74日間も続け、ついには日本中の秀才が集う幕府直轄の教育施設「昌平黌(しょうへいこう)」へ入学しました。昌平黌は当時日本の最高学府といわれていましたが、権威主義的な雰囲気と教育内容に失望した清河は自ら退学の道を選び、私塾「清河塾」を開講します。
当時学問と剣術を同時に教えられる学者は江戸中で清河ただ一人。清河塾はみるみる評判の塾となり一躍有名になります。
剣豪としての顔

学者だけでなく、剣豪としても江戸で名を挙げた清河。
幕末三大道場のひとつ、北辰一刀流の千葉周作道場「玄武館」で剣を学び、通常取得に2~3年かかる「初目録」をわずか1年で習得します。
幕府のお尋ね者になったのはなぜ?
尊王攘夷集団「虎尾の会」の結成
清河が31歳の頃には過激な尊王攘夷派の志士達がこぞって清河塾に集うようになっていました。
清河は桜田門外の変が起こる直前の万延元年(1860年)、山岡鉄太郎(のちの山岡鉄舟)らと尊王攘夷を掲げる「虎尾の会」を結成しました。その後に起きた桜田門外の変は、清河の政治活動をさらに活発化させる契機となります。
虎尾の会の関係者は、アメリカ総領事館の通訳だったヒュースケンの暗殺にも関与しました。この事件を受け、清河も幕府から警戒されるようになります。
幕府の罠にかかった清河
幕府はヒュースケン暗殺の黒幕を清河と推察し、清河を捕まえるために刺客を送りこみ、往来でわざと絡んでケンカを仕向けました。幕府の罠にはまった清河は刺客の首筋を一瞬で斬り落とし、幕府のお尋ね者として追われる身となったのです。
逃亡生活一変、清河劇場開幕
幕府に大赦される
お尋ね者の身でありながら、全国の志士たちに精力的に倒幕を遊説して回っていた清河ですが、捕らえられてしまった妻や仲間を救うべく、幕府に建白書『急務三策』を提出します。
急務三策
- 攘夷の実行
- 浪士組参加者の過去の罪の免除(大赦)
- 文武に秀でた英材の教育
当時朝廷から「攘夷の実行」を迫られ対応に困り果てていた幕府は清河の意見を採用。江戸に溢れる浪人らを集め「浪士組」を結成し将軍の上洛警護の任を与えます。
この浪士組には後の新選組となる近藤勇、芹沢鴨、土方歳三、沖田総司など234人の浪士が集まりました。
日本史上初、浪人が天皇から勅諚を賜る
文久3年、新選組ファンなら誰もが知る出来事が起こります。
清河は将軍警護のため京都に到着した浪士組一同を集め、耳を疑うような演説を繰り広げました。
「我々の目的は将軍警護にあらず!幕府とはなんらかかわりがない。朝廷を擁立し、天皇のため、日本のため立ち上がるのだ!」
幕府警護の部隊が一瞬にして倒幕の部隊となった瞬間です。
清河の迫力にのまれた一同は朝廷への上書に署名。朝廷はこれを受理し勅諚(天皇のお言葉)を浪士組あてに送ります。民間人、それも身分の低い浪士たちへ天皇の勅諚が下るのは前代未聞の出来事でした。
この後、清河ら浪士組は尊王攘夷を実行するため江戸にとんぼ返りを決めますが、幕府を欺く行為だとこの決定に反対した近藤勇らが浪士組を脱退。この出来事がきっかけで新選組が結成されました。

志半ばの暗殺
浪士組が江戸へ戻った後、清河は攘夷の実行を計画していましたが、文久3年(1863年)4月13日、計画の実行を前に幕府側の佐々木只三郎らによって暗殺されました。
暗殺当日、清河は高橋泥舟のもとで、扇に二首の和歌を記したと伝えられています。
『魁けて またさきがけん 死出の山 迷いはせまじ 皇の道』
『くだけても またくだけても 寄る波は 岩かどをしも 打ちくだくらむ』
この歌に不吉なものを感じた高橋泥舟は外出を止めましたが、清河は約束があるとして、上山藩士・金子与三郎のもとへ出かけました。その帰途、麻布一ノ橋付近で佐々木只三郎らに襲撃され、命を落とします。
高橋泥舟の制止を受けても約束を優先して出かけたという逸話は、清河の人柄を考えるうえで興味深いものです。

清河八郎記念館

山形県庄内町にある清河八郎記念館をご紹介します。
日本屈指の切れ者のイメージとはまた違った温かで誠実な清河の人柄を垣間見れる貴重な場所です。

新選組隊士の名が並ぶ「浪士組廻状留」
記念館には、浪士組の参加者名などが記録された「浪士組廻状留」が展示されています。今回は「浪士組廻状留」の写しを撮影させていただきました。

こちらの記念館には浪士組の子孫の方々も訪れているそうで、廻状留の写しには来訪者の情報や浪士同士の縁戚関係などが付箋で付け加えられている様子も見られます。
隊士一人一人が歴史上の人物ではなく、一人の人間として幕末を生き抜いていたことをありありと見せてくれる大変貴重な資料ですね。
清河八郎記念館-<Information>
- 名 称:清河八郎記念館
- 住 所:〒999-6606 山形県東田川郡庄内町清川上川原37
- 開館期間:3月~11月
- 休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、冬季休館(12月~2月)
- 開館時間:10:00~17:00
- 入館料:大人500円、高校生300円、中学生200円、小学生以下無料
- 団体料金:10人以上は1割引
- 障がいのある方および付添人:250円
- 電話番号:0234-57-2104
- アクセス:JR陸羽西線「清川駅」から徒歩約10分
- 公式URL:https://hachiro.navishonai.jp/
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清河八郎の外国観
清河は攘夷を唱えましたが、外国や貿易そのものを一律に否定していたわけではなかったと考えられます。
のちに実業家となる田中平八と会った際、「これからは貿易の時代が来る」という趣旨の話をしたとの記録もあります。
清河の攘夷論には、外国と対等に向き合える国家を目指す意識があったとも解釈されています。
まとめ
開国と攘夷に揺れ動く激動の時代、強い志を持ち時にはその明晰な頭脳で常人には理解しがたい策をもってして「ペテン師」と呼ばれることもある清河八郎。
その内面はまっすぐで温かく、己の信念を貫くために努力と行動を惜しまない人物でした。
参考文献:立川町編『清河八郎グラフィティ―幕末を駆け抜けた英傑の生涯』




















