【秋田県大館市】江戸時代に久保田藩の重要な役割をした大館。明治維新では東北各藩の集中砲火で焼け野原に
目次
江戸時代の前半は藩境でもめにもめた大館
秋田犬や比内地鶏、きりたんぽなどで知られる大館は、江戸時代には久保田藩(秋田藩)の最も東に位置していました。北には津軽藩、東隣は南部藩の領地で、境界あたりでは常にいさかいが起きていました。ついには江戸幕府をも巻き込む大騒動になったのです。
現在では大館市の東隣の鹿角市(かづのし)や小坂町は秋田県の自治体ですが、鹿角市や小坂町が秋田県に編入されたのは明治時代以降のことで、江戸時代は南部藩の領地だったのです。そのため久保田藩は大館城には強力な城代を住まわせ、津軽藩や南部藩に睨みをきかせていました。
津軽藩との境界争いの中心は羽州街道の矢立峠
大館には江戸と東北地方を結ぶ羽州街道が通っていました。大館から津軽藩に入るためには、標高258mとそれほど高くはありませんが、うっそうとした秋田杉の森に囲まれた矢立峠(やたてとうげ)を越える必要があります。旧来より矢立峠は、両藩の境界になっていたのですが、はっきりした場所は決めていなかったようです。 矢立峠には、峠の頂上から津軽藩側へ少し下ったところに“矢立杉”と呼ばれる大杉があり、これが一応藩境の目印になっていました。伝説によると、平安時代に出羽国(でわのくに/秋田県・山形県)と陸奥国(むつのくに/青森県)の国境を決めるため、峠で弓を射って、矢の当たった杉(矢立杉)が境界と決まったと伝えられていたのですが、いざ両藩で境を決めるに当たって津軽藩は、矢立峠の頂上が境だ、と主張してきたのです。久保田藩では従来通り矢立杉が境の目印、と思っていたので、なかなか決まりません。
150年も続いた国境を決める争い
しかたなく、両藩は江戸幕府に調停を委ねました。幕府の裁定は“矢立杉が境界”とされたのですが、その後も津軽藩は納得せず延々といちゃもんをつけてきたのです。最終的には津軽藩も境界は矢立杉と認めたのですが、それは江戸中期の1746年になってからで、その間なんと150年近くも争っていました。
明治時代以降も秋田県と青森県との県境は矢立杉あたりになっており、矢立杉は秋田県側にあります。矢立杉はその後折れたり、伐採されたりしてしまいましたが、現在は県境のシンボルとして、旧矢立杉の切り株には3代目が植えられています。
矢立峠は秋田杉の宝庫。現在は遊歩道が整備され絶好の散策コース
矢立杉・矢立峠周辺は、「やすらぎの森」「矢立峠風景林」として保護され、「歴史の道 矢立峠遊歩道」が整備されています。天然秋田杉が生い茂る森の中を、古羽州街道を中心に散策コースが作られ、要所には案内看板も立てられていて、迷わずに安心して歩くことができます。起点には現羽州街道(国道7号)沿いにある「道の駅 やたて峠」が便利です。道の駅の駐車場は散策のために利用することが可能で、館内には散策路の案内パンフが置いてあります。また、クマなどの野生生物も多いので、周辺をよく知るスタッフから情報収集してから歩きましょう。
「道の駅 やたて峠」は、温泉宿泊施設「大館矢立ハイツ」に併設されていて、矢立ハイツの天然温泉浴場も日帰り入浴可能です。道の駅から矢立杉までは、最短で約300mです。
「大館矢立ハイツ」はSLの三重連走行で知られていた旧奥羽本線矢立トンネル跡にも近く、大館市の名所旧跡観光の拠点として便利な宿泊施設で、比内地鶏を使ったきりたんぽ鍋などの郷土料理も抜群の味わいです。ナトリウム・カルシウム塩化物泉の天然温泉は、日頃の疲れを癒やしてくれます。
INFORMATON
- 歴史の道 矢立峠遊歩道
- 施設名称:道の駅「やたて峠」/大館矢立ハイツ
- 所在地:秋田県大館市長走字陣場311
- 電話番号:0186-51-2311
- 宿泊料等はホームページまたは旅行サイトで確認してください。
- <日帰り温泉>
- 利用時間:10:00~15:00
- 料金(相部屋休憩込):中学生以上 700円、小学生 400円
- URL:道の駅「やたて峠」・「大館矢立ハイツ」
- アクセス:
- 鉄道/JR奥羽本線大館駅からタクシーで約25分
- 車/東北自動車道碇ヶ関ICから約7分、秋田自動車道大館北ICから約20分
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解決に70年以上かかった南部藩との境界
東側の南部藩との境界もなかなか決まりません。そこで、久保田藩と南部藩の役人は何回も江戸に出向き、幕府を交えて話し合いを行い、合意されたのはようやく1677年になってからでした。
江戸幕府の一国一城令の例外として取り崩しを免れた大館城
大館城は、鎌倉時代以降比内と呼ばれていた大館を領有していた浅利氏が築いた城ですが、浅利氏は家督権争いに敗れ断絶。一時能代の安東氏が城代を置いたり、南部藩が領有したりといくつかの変遷があり、戦国時代末期には豊臣秀吉の命により、当時秋田城を拠点に秋田地方を支配していた秋田氏(旧安東氏)の居城となります。
江戸時代に入り、徳川家康は秋田氏を常陸国(茨城県)に移動させ、その代わり常陸国の大名佐竹氏を秋田に移します。大館城も佐竹氏の城となりましたが、佐竹氏は居城を日本海側の久保田(秋田市)に建てたため、大館城には家臣を派遣します。その際もともとの大館城城主らは佐竹氏に反発して争いが勃発しますが、1610年に小場義成(おばよしなり)が鎮圧し城主となります。
1615年になって江戸幕府は突然一国一城令(いっこくいちじょうれい)を発布、ひとつの藩(藩=国)にはひとつの城しか認めない、と言ってきました。久保田藩は久保田城が本拠地ですから、大館城は廃城の運命になってしまったのです。しかし、久保田藩には例外として大館城と横手城も正式な城として認められました。その理由は単に領有地が広く統治が大変だろうということだそうです。
大館城の初代城代の小場義成は、久保田藩初代藩主佐竹義宣(よしのぶ)のいとこで、義成から3代目の義房からは佐竹姓を名乗ることが許さました。さらに6代目の義村の時に“佐竹西家”と称するようになったのです。以降大館の佐竹家は“西家”や“お西様”と呼ばれています。
平穏な時代を過ごした大館に激震が走った戊辰戦争
大館は境界問題が解決してからは幕末まで平穏な時代が長く続きます。しかし、明治維新は大館に壊滅的な被害をもたらしてしまいます。1868年に勃発した戊辰戦争(ぼしんせんそう)です。
1867年に薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)は同盟を結んでクーデターを起こし、主権を天皇に戻すことを江戸幕府15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)に認めさせます(大政奉還)。クーデターは無血で完了し、薩長それに土佐藩(高知県)を加えた3藩を中心とした新政府が誕生しました。
しかし、それに納得しない勢力が、新政府に反発し、1868年1月に京都で新政府軍と衝突します。これが「鳥羽・伏見の戦い」で、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始まりでした。戊辰戦争は新政府軍の北への進軍とともに戦いは全国に広がっていったのです。
新政府軍に参加した久保田藩の最前線になった大館城
東北地方では会津藩(福島県)や南部藩を中心に多くの藩が反新政府で結束し、北陸の一部藩とともに「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍に対して戦いを挑みました。久保田藩もはじめは列藩同盟に参加していましたが、新政府軍の説得により1868年7月4日に脱退、周りの藩がほとんど敵になったのです。
久保田藩の脱退に怒った南部藩は、8月9日には久保田藩への攻撃を開始します。大館は戦地になってしまいました。当初圧倒的な戦力を誇る南部藩により8月22日に大館城は陥落、城下町はほとんど灰になってしまいます。その後は新政府軍の援軍を受けた久保田藩軍が盛り返し、9月6日に大館を奪還しました。その結果、久保田藩の損害は大館城だけで、久保田城は無傷のまま終戦を迎えたのです。
大館城跡は桂城公園として整備され、市民憩いの場に
大館城は、戊辰戦争ですべての建物が焼失してしまいました。城跡は桂城公園(けいじょうこうえん)として整備されています。桂城とは大館城が“桂城(かつらじょう)”と呼ばれていたことから名付けられました。建物はありませんが、当時の堀とか石垣の一部が残っていて、園内には多くの桜が植えられ、春の桜祭りには多くの市民や観光客が訪れます。
INFORMATON
- 施設名称:桂城公園
- 所在地:秋田県大館市中城
- 電話番号:0186-43-7072(大館市産業部観光課)
- 鉄道/JR奥羽本線大館駅から路線バスで約10分、大館市役所前バス停下車徒歩約 1分、JR花輪線東大館駅から徒歩で約20分
- 車/東北自動車道小坂ICから約30分
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江戸時代の貴重な建物が残る「大館八幡神社」
戊辰戦争で壊滅的な被害を受けた大館市の旧城下町には当時の建物はほぼ残っていないのですが、奇跡的に大館城の東端にあった「大館八幡神社」の本殿が、江戸時代の佇まいのまま建っています。本殿は1687年に建立されたもので、江戸時代初期の建築様式による大変貴重な建物として、国の重要文化財に指定されました。
INFORMATON
- 施設名称:大館八幡神社
- 所在地:秋田県大館市字八幡1
- 電話番号:0186-42-1328
- 境内散策自由
- URL:大館八幡神社
- アクセス:
- 鉄道/JR奥羽本線大館駅から徒歩で約35分、東大館駅から徒歩で約25分
- 車/秋田自動車道大館南ICまたは大館北ICから約10分