【秋田県】戊辰戦争で焼け落ちた横手の城下町に当時の町並みが再現

横手市のある横手盆地は、秋田県東南部に位置し、東側は岩手県に隣接しています。平安時代は清原氏(きよはらし)の支配下にあり、歴史上名高い「後三年合戦」が繰り広げられた地として知られています。江戸時代には久保田藩(秋田藩)の領地となり、城下町は奥州街道桑折宿から秋田、青森を結ぶ羽州街道の宿場町(横手宿)としても栄えました。

横手を本拠地としていた出羽国(でわのくに)の豪族清原氏は、一族の内紛による覇権争い「後三年合戦」(1083年~1087年)の結果、ただひとり生き残ったのは清原氏とは直接は血縁関係のない親族(後妻の子)、清原清衡(きよひら)でした。清衡は、その後実父の姓、藤原に改めるとともに、横手から平泉(岩手県)に本拠地を移し、東北地方一帯を治め、以後約100年にわたり、奥州藤原氏として平泉黄金文化のいしづえを築いていったのです。

奥州藤原氏が滅亡した後、横手では、平賀氏など、鎌倉幕府から地頭に任命された一族の統治がしばらく続きます。


出羽国の豪族小野寺氏が横手に進出、横手城を築く

出羽国秋田領横手城絵図 所蔵:秋田県立博物館

室町時代には、雄勝郡に本拠地を置いていた小野寺氏が平鹿郡にも進出、横手を本拠地とします。横手城は小野寺輝道(てるみち)が1550年頃築いたと伝わっており、別名を朝倉城といい、城下町が整備されたのもこの頃と考えられています。

小野寺氏は、織田、豊臣、徳川が覇権争いをしていた安土桃山時代、秋田県南部から山形県北部までを広く領地にして、470もの城を構えていたといわれます。しかし、隣り合わせの領主たちとひっきりなしに争い繰り返し、一族の離反などもあり勢力は衰えていきました。さらに、豊臣方と徳川方による天下分け目の戦い関ヶ原の戦い(1600年)では、小野寺氏は豊臣側についたと見なされたため、徳川家康から領地を没収されたうえに、領主は石見国津和野(いわみのくにつわの/島根県)に配流となり、小野寺氏による支配は終焉を迎えました。


久保田藩佐竹氏の領地となった江戸時代、戸村氏によって整備された城下町

江戸時代になって横手は久保田藩(秋田藩)佐竹氏の領地となりました。久保田藩は、久保田(秋田市千秋公園)に新しい城を建て本拠地とします。そのため、横手城は久保田城の支城となりました。1615年に江戸幕府が1つの藩には1つの城しか認めないという一国一城令を発布したあとも、全国ほとんどの支城が取り壊しになった中、横手城は大館城(大館市)とともに、久保田藩の支城として存続することになります。これは江戸幕府としても異例の措置で、全国でも数少ない例となっています。

横手城には伊達氏、須田氏、戸村氏などが久保田藩の城代として赴任してきましたが、1672年に戸村義連(とむらよしつら)が城代になってからは、明治時代になるまで戸村氏が代々受け継いでいます。

佐竹氏は羽州街道などの街道整備や雄物川による河川交通網の整備に力を尽くし、雄物川河口の土崎港に寄港していた北前船からの物資や上方文化の流入にも積極的に取り組みました。


明治時代初頭の戊辰戦争で、横手は焼け野原に

江戸時代の200年間、比較的平穏だった横手に激震が走ります。1867年に大政奉還によって政権が天皇に返上されたのです。全く蚊帳の外だった東北地方の藩は、大混乱に陥ります。戊辰戦争の緒戦の勝利によって関東以西を抑えた新政府からはさまざまな指令が東北各藩に届きます。それに対して各藩は新政府に反対の藩と、新政府に従う藩、曖昧な態度の藩にと分かれてしまいました。そこで、意思統一が進められ、仙台藩、会津藩、米沢藩を中心に、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)が結成され、東北全体で新政府軍と戦うことになったのです。

久保田藩は、はじめ奥羽越列藩同盟に参加していましたが、もともとあまり積極的ではなく、途中で脱退、新政府軍に加わります。そのため、仙台藩や庄内藩から攻め込まれ、特に横手は戦いの中心となり、横手城の守備兵は自ら城に火を放って退去、町は攻撃側の放火によりほとんどが焼き尽くされてしまいました。


整備が進む横手城跡や武家屋敷通り

横手城から見渡せる風景。遠方の山は鳥海山 ©横手市

横手城跡には、1879年(明治12年)本丸跡に焼け残った横手城の遺構を使って秋田神社が建立されました。その後1900年代以降には公園として整備されています。1965年(昭和40年)になって、二の丸跡に“三層天守閣様式の展望台(模擬天守)通称:横手城)”や平和観音などが建てられました。横手城の内部は展示室になっており、横手城ゆかりの品々が展示されています。また、4階の展望室からは、目の前に広がる横手盆地や遠くには雄大な鳥海山などが見渡せます。

横手城(模擬天守)を中心に整備された「横手公園」 ©横手市

横手公園<Information>

  • 施設名称:横手公園
  • 所在地:横手市城山町29-1
  • 電話番号:0182-32-1096
  • 開館時間:9:00~16:30
  • 入館料:100円、中学生以下無料
  • ※「横手公園展望台」「ふれあいセンターかまくら館」「後三年合戦金沢資料館」「石坂洋次郎文学記念館」4館共通
  • ※横手公園散策は無料
  • 開館期間:4月1日~11月30日、2月の「かまくら」期間中
  • URL:横手公園

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昔のままに整備、再現された羽黒町武家屋敷通り

整備復原された町並み ©横手市

横手の武家屋敷は、戊辰戦争で焼き尽くされてしいましたが、昔ながらの町内を復原しようとする動きは昭和60年代から始まりました。平成になってからは“街なみ環境整備事業”として積極的に整備が続けられ、中級武士たちの屋敷が並んでいた羽黒町には、黒塀や植栽などデザインを統一された武家屋敷の町並みが再現されました。

この武家屋敷通りは横手市冬の代表的な行事「かまくら」の会場にもなっています。

羽黒町武家屋敷通り<Information>

  • 施設名称:羽黒町武家屋敷通り
  • 所在地:秋田県横手市羽黒町
  • 電話番号:0182-32-2408(横手市建設部都市計画課)

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江戸時代に町人町だった大町通り

江戸時代、横手城の城下町は横手川の城側が武家町、外側の羽州街道沿いが町人の町となっていました。横手川沿いの大町は町人町の中心地だったところで、江戸時代以前の建物等は戊辰戦争で灰になってしまいましたが、明治時代・大正時代の建物はいくつか残っています。

明治創業の菓子舗「木村屋本店」(国登録有形文化財)

明治時代に建てられた菓子店、木村屋本店 ©横手市

木村屋は、明治20年代後半に創業者が東京の木村屋などで菓子作りを修業し、横手に戻り開業した菓子店です。店名は東京木村屋からのれん分けしてもらったもので、本店の建物は1904年(明治37年)頃建てられています。1924年(大正13年)には、親交のあった森永西洋菓子製造所(森永製菓)工務部によって改装されています。

木村屋本店<Information>

  • 施設名称:木村屋本店
  • 所在地:秋田県横手市大町5-23
  • 電話番号:0182-32-0700
  • 営業時間:9:30~17:30
  • URL:木村屋本店

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結婚式場として営業中の「平源旅館」(国登録有形文化財)

大正時代に建てられた平源旅館本館 ©横手町

平源旅館(ひらげんりょかん)は、江戸時代創業の染物屋平田屋を母体に、1873年(明治6年)に旅館を創業。明治時代築の土蔵、1926年(大正15年)築の本館はそのままに、2012年(平成24年)に結婚式場・レストラン「ゲストハウス平源」として装いを新たにして営業中です。

平源旅館<Information>

  • 施設名称:ゲストハウス平源(平源旅館)
  • 所在地:秋田県横手市大町6-24
  • 電話番号:0182-33-1100
  • 営業時間:10:00~17:30
  • 定休日:火・水曜日、お盆、年末年始
  • URL:ゲストハウス平源

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