夜の鶴ヶ城

【福島県会津若松市】幕末の悲劇の舞台となった「鶴ヶ城」の歴史とは

福島県会津若松市の観光といえば鶴ヶ城!赤瓦の美しい姿から城郭ファンの間でも人気がある鶴ヶ城ですが、その歴史をご存じでしょうか。

この記事では、会津鶴ヶ城の歴史と、観光の見所について紹介します。理解が深まれば観光がもっと楽しくなる!ぜひ訪れる際の参考にしてみてください。


福島県会津若松市とはどんな地域?

福島県会津若松市は、福島県西部の会津地方、そのなかでも最大の人口を抱える町です。江戸時代には会津藩の城下町として栄え、武家の歴史に関した観光資源が有名です。

会津盆地は有名な米どころであり、豊かな米と清らかな水を活用した酒造りも地域産業の1つ。美味しい酒を求めて、全国から注目が集まります。

他には、武家料理にルーツをもつ郷土料理「こづゆ」「赤べこ」「会津塗り」「絵蝋燭」などの伝統工芸も多いです。現代も歴史が色濃く残る町として、魅力ある町づくりがなされています。


鶴ヶ城の歴史とは|戦国時代から江戸、明治へと歴史を紡ぐ

鶴ヶ城の正式名称は若松城。約630年前に建設され、有名な1868年の戊辰戦争の際には新政府軍の猛攻に耐え、「難攻不落の名城」とされました。赤い瓦屋根の天守閣が美しく、日本百名城の1つとして数えられています。


戦国時代から歴史を紡ぐ鶴ヶ城

会津はもともとは相模国三浦郡蘆名(現在の神奈川県横須賀市芦名)の三浦氏の流れをくむ蘆名氏の治める土地で、鶴ヶ城も当時は黒川城と呼ばれていました。

戦国時代中後期になると、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼして城を手に入れます。しかし、伊達政宗が豊臣秀吉に臣従した際、会津を召し上げられ、蒲生氏の城となります。

鶴ヶ城(逆光)

蒲生氏は1592年から近世城郭へと城を改善し、城下町の整備を進め、町の名前を若松としました。そして1593年に城の天守閣を竣工し、名前を鶴ヶ城としたとされます。

蒲生氏の治世は変わり、保科正之が城主となって以降は、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となりました。


戊辰戦争の会津城籠城戦

江戸時代末期、徳川幕府と薩摩藩、長州藩が対立して江戸城の無血開城が行われたあとのことです。薩長軍は、旧幕府軍を掲げる会津へと攻め入りました。

母成峠古戦場
母成峠古戦場の碑

猪苗代町の母成峠(ぼなりとうげ)で敗戦した会津軍は、1868年10月から約1ヶ月にわたり、会津城に籠城。その間、会津藩と新政府軍とで熾烈な戦闘が繰り広げられました。果敢に抵抗をしつづける会津軍ですが、最後は降伏をして城を明け渡すこととなります。

戊辰戦争では、悲しい史実が残されています。城下の武家屋敷では女性たちが自刃。年端もいかない少年たちで組織された白虎隊の戦死・自刃。白虎隊が敗走して最後にたどり着いた飯森山の隊士たちの墓には、今でも多くの花が手向けられています。


現在の鶴ヶ城は?歴史の舞台となった城跡に思いを馳せて

戊辰戦争の後、石垣だけを残して一度は取り壊された鶴ヶ城。昭和40年9月に、天守閣の再建が行われました。平成23年春には、幕末時代の姿である赤瓦の美しい姿となっています。

天守閣内部には、1層から4層まで会津・鶴ヶ城の歴史の解説や、貴重な資料が数多く展示。歴史の舞台となった建物を見ながら、思いをはせることができます。

天守閣の最上階である5層は、城下を一望できる展望台です。かつて戦火に焼かれた城下町は、美しい街並みとなっています。高さ20メートルに及ぶ石垣や張り巡らされた堀などの、難攻不落の城たる所以のさまを感じることが出来るでしょう。

また、天守閣が建てられているかつての城跡は、鶴ヶ城公園となっています。公園内には、様々な会津の土産物を買うことが出来るショップや、千利休の子・少庵ゆかりの茶室「麟閣(りんかく)」なども。併せて見どころとしておすすめです。

鶴ヶ城(春)

春になると、公園は桜の名所としても多くの人が訪れます。鶴ヶ城と桜の美しいコラボレーションを写真に収めてみてはいかがでしょうか。


まとめ

今回は福島県会津若松市の鶴ヶ城の歴史についてご紹介しました。

数多くの歴史に名を残す人々が関わった鶴ヶ城。今も美しい姿で見る人を感動させていますが、その背景となる歴史を知ることでより感慨深く見ることができるのではないでしょうか。福島県に立ち寄る際は、ぜひ思いを馳せてみてください。

鶴ヶ城<Information>

  • 名  称:会津若松城(鶴ヶ城)
  • 住  所:〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1
  • 築城年:1384年
  • 公式URL:https://www.tsurugajo.com/tsurugajo/

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