【戊辰戦争時の青森県】弘前・黒石・八戸・七戸各藩の決断とは?
目次
青森県内では戊辰戦争の間には、大きな戦いは起こらず平穏でした。
県の東部にある盛岡藩の支藩・七戸藩(盛岡新田藩)は盛岡藩とともに行動しますが、八戸藩は中立的立場を取ります。
また西の津軽では弘前藩とその支藩である黒石藩が一緒に行動を取り、官軍よりの姿勢を見せながらもこちらもほぼ中立を保ちました。
積極的な参戦を避けて領地を守る・弘前藩
初代藩主・津軽為信(つがる・ためのぶ)から12代目の藩主・津軽承昭(つがる・つぐあきら)は、藩の洋式軍備の増強に努めたとされていますが、和歌にもその才を発揮していたと言われています。
ほとんどの東北諸藩がそうであったように、津軽藩においても官軍と奥羽越列藩同盟のどちらに参加するか、勤王派と列藩同盟とに分かれて藩内の意見は割れていました。
そのおりの1861年1月に新政府による庄内討伐の命に従い、久保田藩とともに官軍方として兵を出しますが、庄内藩によって撃破されてしまいます。
その後、弘前藩は久保田藩との藩境の矢立峠を封鎖して領内の守りを固め、官軍への参加を説得しにきた澤為量(さわ・ためかず)奥羽鎮撫総督府副総督らも追い返して中立を保ちます。
奥羽越列藩同盟からの離脱
7月に久保田藩が仙台藩からの使者を斬り、新庄藩・本荘藩・矢島藩・亀田藩(後にやむなく列藩同盟に加入)とともに新政府に恭順して、官軍となりました。
そして弘前藩に、京都留守居役の西館平馬(にしだて・へいま)から、京都における各勢力の最新詳細情報がもたらされ、藩論が大きく勤皇に傾き新政府側につくのでした。
弘前藩は8月に久保田藩へ援軍を派兵して庄内藩と戦い、領内が戦場となることはありませんでしたが、藩士や軍夫として動員された百姓や町人に死傷者を出しています。
「私戦」とされた野辺地戦争
1868年旧暦9月20日、盛岡藩が新政府に降伏し翌22日には新政府が降伏を受け入れますが、その翌日である23日、新政府側である弘前藩と黒石藩の連合軍が盛岡藩の野辺地に侵攻しました。
旧暦9月23日未明に弘前・黒石藩兵180名が盛岡藩の野辺地馬門村に侵攻して放火し、奇襲に驚く盛岡藩兵は退却し、弘前・黒石藩兵は盛岡藩の野辺地での軍事基地である軍事局に迫りました。
やがて盛岡藩の援軍が駆けつけて、東向きに攻めていた弘前・黒石藩兵は日の出で視界を失い混乱し、隊長以下29名の戦死者を出して撤退しました。
野辺地戦後の沙汰について
旧暦10月2日に盛岡藩は津軽の新政府軍参謀局からの呼び出しに、家老の新渡戸傳(にとべ・つとう)らが出頭しますが、盛岡藩側が責任を負わされそうになり、許しを請いました。
その後、この戦争については戊辰戦争とは関係ない「私闘」とされ、処分が下される事はありませんでした。
また、放火された馬門村に、弘前藩から賠償の申し出がありましたが、村の庄屋の川村六治郎が「この賠償を受けると、盛岡藩が久保田藩に攻め込んだ際の賠償をしなければならなくなる」として丁重に断ったと伝えられています。
弘前城<Information>
- 名 称:弘前城
- 住 所:〒036-8356 青森県弘前市下白銀町1
- URL:弘前公園HP
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弘前藩と一心同体・黒石藩
弘前藩の支藩でしたが1万石の格式があり、1809年から黒石津軽家は外様大名として扱われました。
戊辰戦争においては4代藩主・承叙(つぐみち)は、本家の弘前藩と行動をともにしています。
「黒石城趾」碑<Information>
- 名 称:「黒石城趾」碑
- 住 所:〒036-0306 青森県黒石市内町
- URL:ー
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南部家だけど宗家とは疎遠・八戸藩
南部盛岡藩では1664年に病没した2代藩主・重直(しげなお)には嫡子がなく、幕府の命により重直の2人の弟のうち、重信(しげのぶ)が盛岡藩8万石、直房(なおふさ)が八戸藩2万石として分割されました。
幕府による裁定であるため、八戸藩は支藩ではなく独立した大名として扱われています。
戊辰戦闘時の9代藩主・信順(のぶゆき)は島津家から迎えた養子であったため、双方から敵としてみられますが、信順は列藩同盟には家老を派遣し、久保田藩とも連絡をとり、難局を乗り切り八戸藩を存続させたのでした。
八戸城跡<Information>
- 名 称:八戸城跡
- 住 所:〒031-0075 青森県八戸市内丸1丁目1−1 中央児童会館
- URL:八戸市HP
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盛岡藩の新田分地支藩・七戸藩(盛岡新田藩)
盛岡藩の開拓によって新田分知によって創設された支藩で、当初は盛岡新田藩と呼ばれていました。 七戸城跡が、東北新幹線の七戸十和田(しちのへとわだ)駅近くに残されています。
七戸城跡<Information>
- 名 称:史跡 七戸城跡(柏葉城跡)
- 住 所:〒039-2525 青森県上北郡七戸町七戸30
- URL:青森県HP
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まとめ
東北の各地で激しい戦いが起こるなか青森県内は平穏でしたが、奥羽越列藩同盟が全て降伏し、盛岡藩も降伏をしますが、その後に野辺地の戦いが起こりました。
野辺地戦争は津軽藩が新政府にアピールするためだったとする説がありますが、戦国時代からの両藩の軋轢を考えて、盛岡藩の主要貿易港の野辺地をこの機会に奪うつもりだったとする説もまことしやかに語られています。