片倉家御廟所

【宮城県白石市】伊達政宗の名臣「智の片倉景綱」と片倉家にまつわる史跡4カ所

宮城県南部に位置する白石市。伊達政宗の右腕として活躍し、「武の伊達成実」と並んで「智の片倉景綱」と呼ばれた片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)によって治められた土地であることで有名です。

今回はそんな片倉小十郎景綱と片倉家にまつわる史跡を巡ってきたので紹介します!


片倉景綱と片倉家の史跡4カ所

仙台藩片倉氏の初代である片倉景綱(かたくら かげつな)は、伊達政宗(だて まさむね)の軍師的役割を務めた名将として有名な人物です。景綱の通称であった小十郎(こじゅうろう)は景綱の亡き後も代々の当主が踏襲し、片倉氏の当主は全て片倉小十郎○○と名乗っています。

幕末になると、戊辰戦争での奥羽越列藩同盟の敗北によって、片倉家中の人間は北海道へと開拓移住をすることになりますが、それまでもその後も白石の地に片倉家の歴史は紡がれています。

戊辰戦争後の伊達家家臣団のその後は以下の記事で追っています。

一国一城令の例外とされた片倉氏の居城「白石城」

白石城(しろいしじょう)は関ケ原の合戦後である1602年以降、仙台城の支城として伊達家の家臣である片倉氏の居城となりました。幕府への反乱や国同士の戦争を封じるために幕府が発令した1615年の「一国一城令」後も例外的に存続が認められたことが、伊達政宗が築き上げた伊達家と幕府の親密な関係性を感じさせます。

戊辰戦争の際にはこの地で白石列藩会議が開かれ、奥羽越列藩同盟の結成につながるなど、時代の転換期に重要な舞台となった場所でもあります。

白石城
白石城

平成7年に天守閣と大手一ノ門、ニノ門が忠実に復元され、現在は白石市のシンボルとなっています。

城周辺や内部の詳細は以下の記事にまとめています。

白石城<Information>

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初代片倉景綱の墓標と伝わる一本杉がある「常英山 傑山寺」

傑山寺(けっさんじ)は、1608年に片倉景綱が片倉家の菩提寺として創建した寺院です。

片倉小十郎景綱像と傑山寺の本堂
片倉小十郎景綱像と傑山寺の本堂

初代景綱と2代重長(しげなが)がこの寺に葬られましたが、3代景長(かげなが)が廟所を愛宕山(現在の片倉家御廟所)に改めて改葬。

現在では10代目までの当主が愛宕山の片倉家御廟所、11代以降の当主と歴代奥方がここ傑山寺に葬られています。

片倉家墓所の案内板
片倉家墓所の案内板

片倉家墓所の案内板。片倉家の他に、ゆかりのある北海道松前藩初代藩主・松前慶広(まつまえ よしひろ)の七男・松前安広(まつまえ やすひろ)とその子孫もここに葬られています。

片倉小十郎景綱の墓標と伝わる一本杉
片倉小十郎景綱の墓標と伝わる一本杉

境内を奥に進み、案内の通り山道を上っていくと、初代景綱の墓標と伝わる樹齢400年の一本杉が見えてきます。

傑山寺<Information>

  • 名  称:常英山 傑山寺
  • 住  所:〒989-0248 宮城県白石市南町2丁目7−20
  • 電話番号:0224-25-9258
  • 公式URL:https://kessanji.jp/

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三代目の片倉景長によって造営された「片倉家御廟所」

片倉家御廟所(かたくらけごびょうしょ)は三代目にあたる片倉景長が初代景綱の命日に当たる1680年の10月14日に景綱と二代重長の墓を傑山寺から改葬し造営した廟所です。

片倉家御廟所
片倉家御廟所

花崗岩の玉垣に囲まれ、石畳を敷いた床面に並んだ十体の大きな石像と1基の墓碑という立派なつくりで、東北の陪臣(ばいしん)の廟所としては、他では見られない貴重な造りといわれているそうです。

玉垣の外側、写真右側には、初代景綱に殉死した6名の家臣の墓碑も建立されています。

ちなみに陪臣とは「家臣の家臣」のことで、徳川将軍をトップにして大名が家臣、大名の家臣が徳川将軍から見て家臣の家臣ということになります。

片倉家御廟所の案内板
片倉家御廟所の案内板

七代村廉(むらかど)の奥方である昌子夫人は仙台藩主伊達吉村(だて よしむら)の息女であることから、城主同様にこの廟所に葬られています。

片倉家御廟所の墓標である阿弥陀如来座像
片倉家御廟所の墓標である阿弥陀如来座像

阿弥陀如来座像が墓標となっていますが、十代宗景(むねかげ)のみ角柱の石碑が墓標になっています。

片倉家御廟所<Information>

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伊達政宗の乳母であり黒釣鐘の旗印の考案者でもある「喜多の墓」

片倉家御廟所のある愛宕山から国道113号線を七ヶ宿方面に少し進むと、伊達家臣・鬼庭良直(おににわ よしなお)の娘で、片倉景綱の異父姉であり、伊達政宗の乳母でもある片倉喜多(かたくら きた)の墓があります。

文武両道に秀でた女性で、20歳ほど年の離れた景綱はもちろん、幼少期の伊達政宗の人格形成にも多大な影響を与えた人物と考えられています。

伊達政宗の成長後は、政宗の正室である愛姫(めごひめ)付きとなり、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の人質となった愛姫と共に1594年に京へ上洛。伏見の伊達屋敷にて奉公し、豊臣秀吉にも拝謁、秀吉は喜多の才能に触れ「少納言」と称賛したといわれています。

片倉喜多の墓
片倉喜多の墓

片倉家の旗印「白地黒釣鐘」は喜多が景綱に考案したもので、片倉家の名が天下に鳴り響くようにとの願いや、戦死者の霊を弔うという意味が込められているといわれています。

喜多の墓<Information>

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まとめ

白石和紙、白石温麺、弥次郎こけし、最近では蔵王きつね村などで有名な白石市ですが、さすが城下町。長い歴史を証明する史跡も多数存在します。取材という形ですが個人的に思い入れもある片倉景綱の足跡を辿ることができてとても感慨深かったです。

ちなみに白石には、片倉家と奇妙な縁で結ばれた真田幸村(さなだ ゆきむら)とその子孫にまつわる史跡も幾つか存在します。

そちらは別記事にまとめてあるので興味ある方は是非見てみてください。


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