【岩手県】かつて存在した急行列車「陸中」、伝説と語り継がれるあまりに複雑な運行形態

現在の日本の鉄道において、「変な経路を走る列車」というものはほとんど存在しません。
東北地方を走る列車を例に挙げると、岩手県の山田線で運行されている快速「リアス」は、盛岡駅と宮古駅の間というシンプルな運行経路であり、運行区間は山田線の中だけにとどまっています。

しかしJRの前身の国鉄の時代には全国各地で、経路が複雑な列車が運行されていました。
その列車の代表格とも言える列車が、今回ご紹介する急行「陸中(りくちゅう)」です。


上野駅と盛岡駅・宮古駅を結んだ初代「陸中」

急行「陸中」という列車が登場したのは1961年のことでした。
東京都の上野駅から常磐線を経由して盛岡駅へ向かう車両と、岩手県の花巻駅から釜石線に入って太平洋を目指し、釜石駅から山田線(※)に入り宮古駅に向かう車両が、上野駅~花巻駅間で連結して走る列車でした。
現在の新幹線では、東北新幹線の「はやぶさ」と秋田新幹線の「こまち」が、東京駅~盛岡駅間では連結して運行されていますが、それと同じようなことをしていたのです。

※釜石駅~宮古駅間は、現在は三陸鉄道に移管されていますが、2019年までは国鉄・JRの山田線の一部でした。

宮古駅
宮古駅

なお、所要時間は上野駅~盛岡駅間でおよそ8時間、上野駅~宮古駅間(花巻駅~宮古駅間は急行から準急に格下げ)でおよそ11時間でした。
現在の上野駅~盛岡駅間の東北新幹線での所要時間は2時間あまりですから、相当に隔世の感がある所要時間です。

登場からわずか5年後の1966年10月のダイヤ改正で、上野駅を発着する「陸中」は運転を終了しました。
そして「陸中」の名は、全くの別物と言える列車に対してつけられます。
そのため本記事では、1966年9月までの「陸中」に初代、10月以降の「陸中」に二代目をつけて区別することにします。


遠回りでの運行を始めた二代目「陸中」

キハ58系気動車
キハ58系気動車

1966年10月に登場した二代目「陸中」は、仙台駅と宮古駅を、東北本線・釜石線・山田線経由で結ぶ列車でした。
上野駅~宮古駅間を結んでいた初代「陸中」の、仙台駅以南をカットしたような列車ということになります。

そして「ヨン・サン・トオ改正」こと1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正で、二代目「陸中」は大きな変貌を遂げます。
宮古駅までの運行だったところを、秋田駅までの運行に延長されたのです。
宮古駅から秋田駅までの経路は、まず山田線で盛岡駅へ出て、それから東北本線(現:いわて銀河鉄道線)を北上し、好摩駅から花輪線に入ります。
そして花輪線を走破して秋田県の大館駅に到着したら、奥羽本線を走行して秋田駅へと向かうのです。

この二代目「陸中」は、仙台駅~盛岡駅間についても、盛岡駅~秋田駅間についても、大変な遠回りをしています。
仙台駅から秋田駅までの全区間乗り通すと、およそ13時間半から14時間もかかりました。
なお、北上線を経由して仙台駅~青森駅間を結ぶ急行「きたかみ」の、仙台駅~秋田駅間の所要時間は4時間半程度でした。
したがって「陸中」を全区間乗り通す人は、列車に乗ること自体が目的の鉄道ファンといった例を除けば、ほぼいなかったことでしょう。


連結・切り離しも複雑だった二代目「陸中」

二代目「陸中」が複雑怪奇だったのは運行経路だけではありません。
途中で「陸中」に連結されたり、切り離されたりする列車が多数存在しました。

1968年10月の仙台発・秋田行きの列車のダイヤに基づき話を進めます。
始発の仙台駅を出発する時点で「陸中」には青森行きの「くりこま1号」と盛(さかり)行きの「むろね1号」が連結されています。
東北本線を北上して、岩手県の一ノ関駅で「むろね1号」は切り離されて大船渡線に入り、盛駅(※)へ向かいます。
しかし代わりに、大船渡線を上ってきた、盛発・青森行きの「さかり」が、「くりこま1号」と「陸中」に連結されます。
更に東北本線を北上して、花巻駅で「陸中」は「くりこま1号」及び「さかり」とわかれて、釜石線に入ります。
ちなみに「くりこま1号」と「さかり」には、「陸中」が抜けた代わりに、釜石発・盛岡行きの「はやちね1号」が連結されます。

※大船渡線は現在、一ノ関駅~気仙沼駅間の路線ですが、当時は盛駅まで通じていました。

「陸中」は釜石線・山田線を走り抜けて、盛岡駅で上野発・弘前行きの「みちのく」に連結されます。
なお、「みちのく」は上野駅から遠路はるばる常磐線と東北本線を下ってきた列車ですが、上野駅を出発したのは朝の7時45分です。
「陸中」が仙台駅を出発したのは7時40分なので、「みちのく」はそれよりも5分遅く上野駅を出発していたことになります。
そして「みちのく」は盛岡駅に16時12分に到着し、「陸中」はその8分後に到着します。
つまり「みちのく」が上野駅から盛岡駅まで走るのにかかる時間よりも、「陸中」が仙台駅から盛岡駅まで走るのにかかる時間の方が長いのです。

「みちのく」と「陸中」は花輪線を経由して秋田県の大館駅まで走ると、そこで切り離されて「みちのく」は青森県の弘前駅へ向かいます。
一方「陸中」には青森発・秋田行きの「むつ」が連結されて、共に終点の秋田駅へ向かうのです。

というわけで「陸中」に連結される列車は5本もあり、紹介は省きますが、連結相手の列車にも「陸中」以外の連結相手がいました
こんなに複雑な運行形態をよく実現できたものだと感心してしまいます。

急行陸中(下り)と関連列車の路線図
1968年10月改正時の急行陸中(下り)と関連列車の路線図 実線は陸中と併結の区間、破線は併結ではない区間
出典:Wikipedia

再び宮古発着に戻った「陸中」

遠回りを重ねる運行経路が無駄だと判断されたのか、それとも連結・切り離しの運用が複雑すぎて定時運行が難しかったのかはわかりませんが、わずか3年半後の1972年3月のダイヤ改正で、「陸中」は仙台駅~宮古駅間の列車に戻されました。

さらに10年後の1982年には東北新幹線が開業したため、11月のダイヤ改正で北上駅~宮古駅間の運行に短縮され、岩手県内のみを走る列車となりました。
連結・切り離しを行う相手も一切いなくなりました。

1985年3月には盛岡駅~宮古駅間の運行に変更されます。
相変わらず、盛岡駅と宮古駅の間を最短経路では結ばず、花巻駅・釜石駅を経由して遠回りしていく列車でした。

1987年に国鉄は解体されて東北地方の路線はJR東日本に引き継がれます。
1990年には国鉄時代から使用されてきたキハ58系気動車に代わって、新型車両のキハ110系気動車が投入されます。
JR発足後に登場した車両がJRの急行列車に充当された、数少ない事例です。

余談ですが、これら気動車は軽油を燃料にしてディーゼルエンジンを回して走る車両であり、電車ではありません。
1990年11月には、盛岡での車両への給油を失念した結果、盛岡発・釜石行きの「陸中3号」が、燃料切れで動けなくなる(いわゆるガス欠)という珍事が起こっています


快速「はまゆり」に格下げされて廃止

国鉄・JRの急行列車は、快速列車と異なり急行料金が必要で、しかし特急列車よりは遅いし快適でもないという中途半端な存在になってしまったことから、国鉄時代末期からJR時代初期にかけて徐々に廃止されていきます。
それは「陸中」も例外ではありませんでした。
2000年代に入って急行「陸中」は、快速「はまゆり」に格下げされていきます。
そして2002年12月のダイヤ改正をもって格下げが完了し「陸中」は消滅しました。

格下げ後の「はまゆり」は、2024年3月現在、全ての列車が東北本線と釜石線経由で盛岡駅と釜石駅を結ぶという、順当でシンプルな列車です。
かつては「陸中」の運行区間を踏襲した、宮古発・釜石経由・盛岡行きの「はまゆり」が1日に1本のみ運行されていた(盛岡発・宮古行きの列車は無し)ものの、2011年に発生した東日本大震災で山田線が被災したことをきっかけに、宮古駅発着の列車の運行は終了しています
(なお、被災した山田線の宮古駅~釜石駅間は、2019年にJR東日本から三陸鉄道に移管されました)。
連結して共に走る列車もありません。
かつての複雑怪奇な二代目「陸中」の後身だとは、想像もつかないような列車です。


まとめ

二代目の急行「陸中」は、東北地方を遠回りしながら、そして様々な急行列車との出会いと別れを繰り返しながら走り回ったという、現在では到底考えられないような運行形態の列車でした。
その複雑怪奇さゆえに、今なお鉄道ファンなどの間では伝説のように語られている列車なのです。
東北地方の鉄道の歴史の面白さの一端に触れたと感じていただけたならば幸いです。


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