【福島県福島市】飯坂温泉と、源義経を補佐した佐藤兄弟

福島県福島市には飯坂温泉という歴史ある温泉地があります。
かの松尾芭蕉も泊まったことが有名ですが、飯坂の地にゆかりのある人物が他にもいます。
源義経に付き従った佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)兄弟を生み出した、信夫(しのぶ)佐藤氏です。


飯坂温泉とは?

飯坂温泉の南には、摺上川(すりかみがわ)の支流である小川(おがわ)が流れています。
この小川と現在の飯坂街道が交差するあたりに、紀元前3000年頃には既に人が住んでいたとされています。
2世紀頃日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征中に病に侵された際に、さばこ(漢字は佐波古、鯖湖など)の湯と呼ばれる飯坂温泉とおぼしき湯に浸かったところ、元気になったと伝わっています。
11世紀初頭に成立したとされる勅撰和歌集の『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』には
「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」
という歌が入っており、さばこが古くから知られる地であったことがうかがえます。

源平時代には、かの源義経に従った佐藤継信・忠信兄弟の父親とされる佐藤基治信夫の里(現在の福島市)を治めており、彼は「湯の庄司」と呼ばれたことから、さばこの温泉とのかかわりが深かった人物とされています。

飯坂温泉駅に設置されていた佐藤兄弟のパネル

鎌倉時代の末頃には、伊達家の分家出身の伊達政信という人物が、このあたりに城を築き飯坂氏を名乗りました。
これが飯坂の地名の由来であり、この頃から湯治場として知られるようになっていきます。

江戸時代中期には、各街道が整備されたことから周辺の庶民のみならず旅人も飯坂温泉を訪れるようになります。
中でも有名人と言えるのが、飯坂で一泊していった松尾芭蕉です
(ただし芭蕉は『おくのほそ道』に「粗末な宿に泊まったので雨漏りがする。蚊やノミに刺されて眠れない。持病がぶり返し、苦しく、気を失うほどだった」と、散々な思い出を記しているのですが……)。

松尾芭蕉のほかにも、後には正岡子規、与謝野晶子といった名だたる俳人・歌人が飯坂温泉を訪れました。

明治期に温泉の成分が科学的に分析された結果、ラジウムの含有が発見されたことから「飯坂ラジウム温泉」として再び全国に知れ渡るようになったのです。

日本初のラジウム発見の地であることを示す碑

ちなみにここまでの解説内容は「飯坂温泉発祥之地」の石碑にだいたい書かれていました。

飯坂温泉発祥之地の石碑

なお、筆者は福島交通飯坂線の電車に乗って飯坂温泉に来ましたが、飯坂温泉駅から出るとすぐに温泉地が広がっています
(「温泉」を名乗る駅でも、駅からさらにバスなどに乗らなければならないケースが多いことは、温泉ファンならばよくご存じのことと思います)。
駅から徒歩で巡ることができる範囲内だけでも、先ほど写真を載せた飯坂温泉発祥之地の碑とか、摺上川にかかる登録有形文化財の十綱橋(とつなばし)、江戸時代から続いていた豪商・豪農の屋敷であった旧堀切邸、気軽に入れる共同浴場、無料で利用できる足湯など、さまざまな見どころがありました。

旧堀切邸

筆者が飯坂温泉に行くために乗車した福島交通飯坂線については、こちらの記事をご覧ください。

飯坂温泉巡りに関してはこちらの記事をご覧ください。


信夫佐藤氏、そして佐藤兄弟とは?

飯坂を含む信夫の地を治めていた信夫佐藤氏は、大化の改新で活躍した中臣鎌足(後に藤原鎌足)の子孫です。
平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の、次男・千常を始祖とする一族です。
信夫佐藤氏は、信夫のほかに近隣の伊達や白河も治めていました。
そして平安時代後期の信夫佐藤氏である佐藤基治は、現在の岩手県にある平泉を本拠とする奥州藤原氏の一門でもありました。
基治の妻の乙和(おとわ)は奥州藤原氏の初代当主・藤原清衡の孫であり、基治の娘は3代目当主・藤原秀衡の三男に嫁いでいたのです。

なお、佐藤基治の居城は大鳥城といいました。
飯坂の市街地の西側にある舘ノ山(たてのやま)にあったとされており、跡地は現在舘の山公園になっています。

舘の山公園<Information>

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源義経を補佐した佐藤継信・忠信兄弟

1160年(平治元年)に起きた平治の乱で、源氏が平家に敗れたのち、源頼朝の弟・義経は、最初京都の鞍馬寺に預けられていましたが、その後遠路はるばる平泉へ移り、藤原秀衡によって庇護されます。
やがて頼朝が平家打倒の兵を挙げると、義経も頼朝のもとに参じて平家と戦い、ついには1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、最大の功労者となりました。

しかし、奥州藤原氏に庇護される存在であった義経に、軍事力はほとんどありませんでした。
そんな義経を補佐したのが、信夫佐藤氏の佐藤基治の息子たちだったのです。

基治の息子である兄の継信と弟の忠信は、秀衡の命により義経の平家追討軍に加わりました。
そして平家を滅ぼすという目的を達成するよりも前に、屋島の戦い(於:現在の香川県、那須与一が扇の的を射抜いたと伝わる戦いです)で兄の継信は討ち死にしてしまい、義経は大いに悲しんだと言われています。

壇ノ浦の戦いで義経が平家を滅ぼした後、義経は兄・頼朝の怒りを買い、一転して頼朝に追われる立場になります。
佐藤忠信は、都(京都)から逃れた義経とは別れ、都に潜伏していましたが、しかし居場所を察知されたことから頼朝の手の者によって襲撃され、命を落とします。

信夫の里を出た佐藤兄弟はそれぞれ、信夫から遠く離れた地で最期を遂げました。
源義経は(本人に責められるべきところが全くないとは言えないものの)悲劇の将として知られていますが、佐藤兄弟もまたそう呼ばれるに値すると言えることでしょう。

ところで、佐藤兄弟にとって、源義経とは命を懸けてまで尽くすべき相手だったのでしょうか?
秀衡が庇護していただけの義経に対して、過度の忠節を尽くす必要はないようにも思えます。
この疑問に対する答えとして、義経が平泉にとどまっていた時代に迎えた妻が佐藤基治の娘だったのではないか、つまり佐藤兄弟と義経は義理の兄弟だったのではないかという説が唱えられているようです。


平家滅亡後の信夫佐藤氏

源義経は兄・頼朝と対立した結果、再び藤原秀衡を頼って奥州へ落ち延びていきます。
しかし、秀衡の死後にその息子で4代目当主の泰衡が頼朝からの圧力に屈します。
最終的に義経は、1189年(文治5年)に泰衡に襲撃され自害へ追い込まれたのです。

しかしこれで奥州藤原氏は安泰とはならず、源頼朝は、これまで義経をかくまっていたこと、そして弟の義経を勝手に自害に追い込んだことを理由として、藤原泰衡をも討つべく鎌倉から打って出ます。
平家の追討は弟(義経や範頼など)に任せっきりだったのに、奥州には自ら出向くという気合の入れようです。
この「奥州合戦」はあっけなく鎌倉側の勝利に終わり、奥州藤原氏の100年あまりの栄華は幕を閉じました。

もちろん奥州藤原氏の一門である信夫佐藤氏も無事で済むわけがなく、佐藤基治は石那坂(飯坂か、福島市南部の平石、松川町の辺りと考えられています)で鎌倉側の軍勢と戦い、そして敗れたものと思われます。
基治はこの戦いで討ち取られたとも、生け捕りにされたのち放免されたとも言われています。

基治の命運はさておき、信夫佐藤氏自体はこの戦いで滅亡することはなく、ある者は信夫に残り、ある者は信夫周辺に移り、大部分は南北朝時代に伊勢(現在の三重県)などの遠国へ移住します。
佐藤栄作・第61~63代総理大臣は、佐藤忠信の末裔と言われています。

筆者の先祖の中にも、名字が佐藤で、飯坂から近い地域で代々暮らしてきた一族がいます。
一族に伝わる家系図によると、先祖は佐藤継信・忠信兄弟につながっているそうです。
ただ、筆者自身はその家系図を見た記憶はなく、先祖が佐藤兄弟だというその家系図が、果たして事実を示しているものなのかも定かではありません。
それでも、自分の先祖があの源義経に付き従っていたのかもしれないという可能性には、ロマンを感じます。


佐藤一族の菩提寺

福島交通飯坂線の飯坂温泉駅から2駅南下すると「医王寺前」という駅があります。
名前の通り、駅から徒歩圏内に医王寺という寺があり、この寺は信夫佐藤氏の菩提寺となっています。
佐藤兄弟と父・基治、母・乙和の墓碑が設けられています。

また、基治・乙和夫妻の墓碑の傍らには1本の椿の木が生えています。
この木には2人の息子を失った乙和の深い悲しみが宿っていて、椿がつぼみのまま落ちてしまうと伝わっています。

寺の本堂には、継信の妻「若桜」と忠信の妻「楓」が、武者姿をした人形がまつられています。
これは、悲しみにくれる乙和を慰めようとした2人が、夫の武者姿に扮したという逸話に基づくものです。

佐藤兄弟と源義経の銅像も境内に立てられています。

瑠璃光山 医王寺<Information>

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まとめ

『平家物語』では、佐藤継信は屋島の戦いで、義経の身代わりとなる形で敵の矢に射抜かれたと書かれています。
そして義経に「主に代わって討たれたなどと末代までの物語に語られることこそ、今生の名目」と言い残して亡くなったとのことです。
義経と佐藤兄弟の末路は悲惨なものではありましたが、継信の最後の言葉の通り、彼らの絆は約840年経った今の時代にもなお多くの人の心を打っています。
名湯として知られているのみならず、歴史ファンにもおすすめの地、それが飯坂なのです。


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